2009年5月23日土曜日

Guilin 5

朝食に向かうためにエレベータで2階まで移動。書いているのが6月なので、非常に懐かしく感じる。良い旅だったと今でも感じる。息抜きは大事である。人間はサイボーグのように働くことは出来ないのだと最近毎日痛感している。



Guilin 4

シェラトン桂林は香港に比べれば確か非常に安い値段で泊まれたように思うが、設備等は素晴らしく全く遜色がない。そういった意味では、未だ中国の通貨である人民元は積みあがった外貨準備から見て取れるように歪んでいるととらえるのが妥当なのだろうか。中国にクリスマスを祝う慣習があるのも不思議だが、人民の自由度というものが随分向上しているのだと捕らえるべきか。中国の正月が1月1日でないことも影響しているのかも知れない。日本はクリスマスがあると冬休みが始まり、正月に向けて準備を始める。クリスマスツリーが出しっぱなしということはなく、12月26日になればその役目を終え、角松が代わりに現れるわけである。



Guilin 3

空港からタクシーでホテルに向かう。シェラトンホテルに行ってくれと伝えて出発し、暫くするとタクシーの運転手が電話を駆け出し、突然その携帯電話を渡される。何を喋っているのかは分からないが、とりあえずその電話に出ろと言われているようだ。電話に出ると、相手は英語で話しかけてくる。突然だったので、聞き返すと、どうやらそのタクシーの運転手とつるんでツアーを観光客に勧めているようである。漓江下りは申し込んだかと聞いてきたが、既に他のツアーを申し込んであったので要らないというと残念そうに電話を切った。結局のところツアーなんてどこで申し込んでも同じなのだろうが、日本語が通じるツアーガイドがいてくれたほうが、我々にとっては安心ではある。




2009年5月19日火曜日

Guilin 2

桂林の空港内を歩き、荷物の受取り場所まで向かう。この空港は、出発と到着のロビーが分かれていないが、国内便のみであれば問題がないのかも知れないと思う。桂林は広州に比べると随分内陸にあるため、寒いことを予想していたが、意外にそれほどでもない。

実務経験の無い学者を否定するような意見を聞くことも多いが、二流の現場の人間に比べれば学者の方がよっぽど先進的である。現場で何となくしか分からないことについて学者が体系付けて整理してくれていたりするからである。理想としては、実務経験を体系化するために学者並に時間を割いて検証を繰り返して理論を構築し、さらにそれを実務へのフィードバックすることである。今のような複雑に枝葉まで派生したような状況を考えれば、そのように全て自分で研究までやってしまうというのは限られた人間にしか出来ないはずである。最終的に正解を出すと言うことが必要であるとすれば最も効率的なのは時間をかけてでも正解を出すと言うことである。一時的には非効率に見えるものであっても最終的には効率的であったという場合があるかも知れない。そういった意味では時間軸というものは非常に重要であることは知るべきことではある。

人生には慣性の法則というやつが働いていて、分かっていながらもうどうしようも無い場合があるのは事実である。色々考えることで摩擦を起こして自分自身を引き留めようとすると熱がでて疲れる。人間は結局のところ、自己の生存以上に正当化できるものが存在しないため、生命体として機能を維持することを最優先する。多少の非効率な面には目を瞑ることで、その機能維持に全力を尽くすという効率化のプロセスを辿っているはずである。組織も同様に、非合理的な意思決定を繰り返しながらも、その最終的な目標とは組織として生き延びることにあり、何故そうなのだろうか、という疑問が生じるようなことがあったとしても、それは基本的には組織の生存という正義が前提となっている場合が多い。短期的な資金繰りのために奔走して猛烈に高い金利を支払うのも、組織が死ねばこれまでの蓄積が全て無駄になるからであり、金利が高くて指標が悪化するかどうかなど二の次の話なのである。

監査においても、公正価値評価などと言って様々な評価の対象となるような項目があるが、ここには監査人の能力の限界があり、専門家の見解にその意思決定を委ねざるを得ない場合がある。経済的な資源が無限にあれば、1人の監査人がそこまで追求することが出来るのかも知れないが、市場は監査に対して一定の監査報酬を支払うにとどめている訳であり、無限にやった結果については評価していないと言える。また財務情報という過去の情報を何年もかけて遡ることに意義を見出してその報酬を支払う奇特な投資家もいないということである。監査人も一定の意味では考える事を放棄し、そういった公正価値の評価などはブラックボックス化して効率化を図る。もちろん専門家の意見に依拠するために様々なプロセスを経ることで、一定の質を維持するための努力はしているものの、そこに限界があるということは否定できない。

これは一般社会において、ステレオタイプ化した大衆が物事を考えずに行動することと本質は同じであると言える。大衆は考えることを放棄し、イメージなどで意思決定をする。それによって大きく外れるということが無いことを、直感的に知っており、また相手にする人間が同様に考える大衆であれば、その方法でも十分に通用するのである。結果として、これはコミュニケーションの効率化に貢献するものの、多くの人間が何も考えずに常識とされていることを信じてそれに基づき意思決定をする。常識は常識ではない、といった話をしていることも多いが、それは大衆がそのように信じていることの逆を行くとうまくいくこともあるよ(可能性は数%だけどね)ということに過ぎない訳であり、そのような情報を書流す人間が本質どこまで把握しているのかは分からない。そもそも常識とされる情報を検証するためには、時間と金を含めた能力が必要だからである。それが出来ない人間は、多くのことをブラックボックスにしまうことによって、意思決定において迷う、ということから逃避するのである。結果として意思決定が誤るのかどうかは常識がどの程度確立されているかによる。一部のことを取り上げて尤もらしく話すことを得意とするのが、何とかアドバイザーとか、そういう人のことであり、結局は一部しか取り上げてないが、ステレオタイプに反発することで飯の種を探しているということである。ビギナーズラックが株式市場で起こりうるのは、ランダムウオークであるにも関わらず、マーケット参加者が一定の常識に基づいて行動するため、結果として常識に反発して勝ってしまう、ということがあるからかも知れない。

宗教か数学かという話をよく書いているが、これも同じような視点から整理できる。すなわち天才かそれに近い人達は、数学のような道具を開発し、それを使いこなすことで、世の中の仕組み、自然法則を理解することが出来てしまうのである。従って、数学が出来る人というのは、やはり頭が良いということになるかも知れない。宗教により信仰というものを持つことで、人々は不安から開放されるかも知れない。これは、世の中では個々人のことなど考えずに事象が起こるため、個々人からすれば理不尽であるということが数多く存在する。その原因を把握することは非常に難しい。あるいは、原因が分かったことで、それを乗り越えることが出来ない人もいるかも知れない。例えば、地震などの自然現象で多数の死者が出ることもあるが、これを人間がどうこうすることは出来ないということは多くの人間が直感的に理解できるはずである。しかしながら、その犠牲者や犠牲者の遺族などは、それを理解して納得するということは難しい。なぜ自分にそのような辛いことが起こったのかということを理解することは、非常に困難であるし、原因がはっきりしないため自分を責める結果になって辛い作業でもある。従って、そこから逃れる、あるいは考えるということを放棄するためには、何か代替となるものが必要である。通常の人間には、数学的にその事象を解明することは出来ないはずであるから、結果として思考を省略するために宗教などの信仰心によりブラックボックス化することで、常識化あるいはステレオタイプ化することで自らの生存を維持する、何とか前進する、という方向に繋がっていくと考えることが出来る。

こうやって常識を紐解くという作業は、結局のところ大衆が自分の生存のために経験則をステレオタイプ化してきた歴史を紐解くことに他ならない。会計士にもアホな人間は沢山いるかも知れないが、それを資格というステレオタイプで見てくれる大衆により、その既得権を維持している。人々が思考を省略してしまうところに、ヒントが隠されていることはある。それを生業にするのが、どんな問題であっても、ある種のコンサルタントという仕事なのかも知れないと思う。

2009年5月5日火曜日

Guanzhou 48/Guilin 1

控えめだがしかし貪欲に何でも取り込んでしまうのが日本人あるいは日本の良さである。日本人は窮屈に生きているだろうか。定められた枠組みの中で控え目にしかしその状況に絶望せず生きている。海外から自分達の一部の非効率的な行いが馬鹿にされていることについても、むしろ冷静に受け止めてなおその上を行く組織の合理性というものを重んじる。和を以って貴しとなす、というものだろうか。結局日本のメディアの質の低さが、歪んだ情報を国民に伝えることで、外国というもののイメージを構築してしまう。外交的にどうだとか、国の利益がどうだとか、そういう問題もあるのだろうが、果ては倫理というものに行き着く訳であり、そういった利害関係をいつまでも重視しなければならないところに無駄が生じる。結局国民が騒ぎ出す頃には結果が出ていることが多い訳であり、ミサイルが飛んできたことに対しても我々は無力である。世論というものを1人のサラリーマンが動かすなんてもっての他で、結局最終的には世論というものに飲み込まれるか、そうでなければその場を去ることぐらいしか選択肢がない。

広州の空港を出発。

桂林の空港に到着。所要約1時間10分。

マスメディアに放置されて忘れ去られたような日本と言う国の症状は今もなお進行している訳であり、決してその重大さに変化があったわけではない。人々が忘れ去るような情報、重きを置かなくなったものは寧ろ買うべき対象なのかも知れない。大衆に逆らうと組織では生きにくいが、一方で生き延びる力は身に付くような気がしなくもない。ニュースで取り上げるような題材についても、結局はメディアにおいて一度噛み砕かれて意図を加えられた上で、一般において形成されたコンセンサスのように報道されることによって多くの人間がその情報に重きを置く。あまり意味がないことであってもその日の話題に上ったりして、反芻されて人々に蓄積する。しかし、10日前に報道されていた事件は何だったかと聞かれれば誰も答えられない。結局、その場しのぎの報道をしているメディアの情報には価値が無い。新聞もテレビもそうである。生き延びるために必要なのは情報を自分の中で消化する能力に他ならない。将来が不安なのは、その情報の消化能力が不足しているからである。金融理論が一定の解を与えるかに見えたが、それもまだ未熟なのか、あるいはただの幻想であったかのどちらかである。経済学の単純化の仮定を鵜呑みにし、自分の都合の良い方向に全てを解釈していく政治家や官僚の癖を矯正することは難しい。子供の頃の癖を結局死ぬまで引っ張り続ける人間の性質というものなのである。自分の価値を維持しながらも、組織の改革を進めていくのは本当に骨が折れる。しかし大変なことというのはやらなくて良い理由にはならないし、寧ろ学ぶ機会であったりもする。上司や組織の都合というのは個々人の都合よりも優先される訳であり、何か根回しするなどしてより良い方向に持っていくチャンスはあったはずだからである。

それが正しいのかどうかの検証はすることが出来ないが、自分の中に内製化して納得出来るようにしてしまえば、理論を伴った状態での諦めがつくようになる。それでも納得がいかなければ改善するかそこを去るしかない。これもまた諸刃の剣であり、正当化する機会が重なってしまうと、多少おかしくてもその間違いに気付かないで人間は暮らしてしまうのである。結局それはだんだん固まっていくものなので、最初の内に直してしまえば何とかなったのかも知れないが、多くの人が既に価値観を構築してしまっているという状態で会社という組織に入ったりする訳で、その段階での矯正というものは不可能に近い。だからこそ組織は限定合理的な選択をしてしまう訳であって、仮に多くの人間が経済人のような生き方をするのであれば、自分の非合理的な行動というものを即座に正すことが出来るはずであり、組織も完全に合理的な解を見つけ出してしまうのである。究極の合理性を追求すれば、人類は滅ぶ以外無いように思うが、人類が生きるということを正当化、あるいはそのことの是非は考えずに人類が生きるので、結局はそれを前提とした解決策しか出てこない。だからこそ排出権だとか意味の分からないことを言う訳であり、人類がそもそもの生産活動を停止するという選択肢は最初から検討されない。永遠の成長というものは今も多くの人々の中に描かれている訳で、これは結局は地球にとっての妥協でしかない。そもそも経済学が完全合理な世界を想定していたという批判、反省が最近行われていて、軌道修正のようなことが行われている。その状況に対して解を与えるという範囲では、宇宙人のように頭の良い人間のエレガントなモデルに比べれば、実証的な経済学へのシフトというものは多くの仮定を含まずに実態を表すという意味では確かに正しいようにも感じるが、結論としての解の選択肢にはいつまで経っても自己あるいは人類の存在を否定するということは入ることはないのであり、これもまた限定合理性の世界なのではないかと考える。

CFAの勉強が進まずこんなことを考えている場合ではないのだが、私自身は結局のところ完全に合理的な行動をとれない訳であり、それを続けていると人として無理がある状態になってしまう。それを他人に押し付けることは、他人をサイボーグとして扱うことに外ならず、完全合理的な人間であるとすれば、そんなことが有り得ないということにもすぐに気付くはずである。