
控えめだがしかし貪欲に何でも取り込んでしまうのが日本人あるいは日本の良さである。日本人は窮屈に生きているだろうか。定められた枠組みの中で控え目にしかしその状況に絶望せず生きている。海外から自分達の一部の非効率的な行いが馬鹿にされていることについても、むしろ冷静に受け止めてなおその上を行く組織の合理性というものを重んじる。和を以って貴しとなす、というものだろうか。結局日本のメディアの質の低さが、歪んだ情報を国民に伝えることで、外国というもののイメージを構築してしまう。外交的にどうだとか、国の利益がどうだとか、そういう問題もあるのだろうが、果ては倫理というものに行き着く訳であり、そういった利害関係をいつまでも重視しなければならないところに無駄が生じる。結局国民が騒ぎ出す頃には結果が出ていることが多い訳であり、ミサイルが飛んできたことに対しても我々は無力である。世論というものを1人のサラリーマンが動かすなんてもっての他で、結局最終的には世論というものに飲み込まれるか、そうでなければその場を去ることぐらいしか選択肢がない。

広州の空港を出発。

桂林の空港に到着。所要約1時間10分。

マスメディアに放置されて忘れ去られたような日本と言う国の症状は今もなお進行している訳であり、決してその重大さに変化があったわけではない。人々が忘れ去るような情報、重きを置かなくなったものは寧ろ買うべき対象なのかも知れない。大衆に逆らうと組織では生きにくいが、一方で生き延びる力は身に付くような気がしなくもない。ニュースで取り上げるような題材についても、結局はメディアにおいて一度噛み砕かれて意図を加えられた上で、一般において形成されたコンセンサスのように報道されることによって多くの人間がその情報に重きを置く。あまり意味がないことであってもその日の話題に上ったりして、反芻されて人々に蓄積する。しかし、10日前に報道されていた事件は何だったかと聞かれれば誰も答えられない。結局、その場しのぎの報道をしているメディアの情報には価値が無い。新聞もテレビもそうである。生き延びるために必要なのは情報を自分の中で消化する能力に他ならない。将来が不安なのは、その情報の消化能力が不足しているからである。金融理論が一定の解を与えるかに見えたが、それもまだ未熟なのか、あるいはただの幻想であったかのどちらかである。経済学の単純化の仮定を鵜呑みにし、自分の都合の良い方向に全てを解釈していく政治家や官僚の癖を矯正することは難しい。子供の頃の癖を結局死ぬまで引っ張り続ける人間の性質というものなのである。自分の価値を維持しながらも、組織の改革を進めていくのは本当に骨が折れる。しかし大変なことというのはやらなくて良い理由にはならないし、寧ろ学ぶ機会であったりもする。上司や組織の都合というのは個々人の都合よりも優先される訳であり、何か根回しするなどしてより良い方向に持っていくチャンスはあったはずだからである。

それが正しいのかどうかの検証はすることが出来ないが、自分の中に内製化して納得出来るようにしてしまえば、理論を伴った状態での諦めがつくようになる。それでも納得がいかなければ改善するかそこを去るしかない。これもまた諸刃の剣であり、正当化する機会が重なってしまうと、多少おかしくてもその間違いに気付かないで人間は暮らしてしまうのである。結局それはだんだん固まっていくものなので、最初の内に直してしまえば何とかなったのかも知れないが、多くの人が既に価値観を構築してしまっているという状態で会社という組織に入ったりする訳で、その段階での矯正というものは不可能に近い。だからこそ組織は限定合理的な選択をしてしまう訳であって、仮に多くの人間が経済人のような生き方をするのであれば、自分の非合理的な行動というものを即座に正すことが出来るはずであり、組織も完全に合理的な解を見つけ出してしまうのである。究極の合理性を追求すれば、人類は滅ぶ以外無いように思うが、人類が生きるということを正当化、あるいはそのことの是非は考えずに人類が生きるので、結局はそれを前提とした解決策しか出てこない。だからこそ排出権だとか意味の分からないことを言う訳であり、人類がそもそもの生産活動を停止するという選択肢は最初から検討されない。永遠の成長というものは今も多くの人々の中に描かれている訳で、これは結局は地球にとっての妥協でしかない。そもそも経済学が完全合理な世界を想定していたという批判、反省が最近行われていて、軌道修正のようなことが行われている。その状況に対して解を与えるという範囲では、宇宙人のように頭の良い人間のエレガントなモデルに比べれば、実証的な経済学へのシフトというものは多くの仮定を含まずに実態を表すという意味では確かに正しいようにも感じるが、結論としての解の選択肢にはいつまで経っても自己あるいは人類の存在を否定するということは入ることはないのであり、これもまた限定合理性の世界なのではないかと考える。
CFAの勉強が進まずこんなことを考えている場合ではないのだが、私自身は結局のところ完全に合理的な行動をとれない訳であり、それを続けていると人として無理がある状態になってしまう。それを他人に押し付けることは、他人をサイボーグとして扱うことに外ならず、完全合理的な人間であるとすれば、そんなことが有り得ないということにもすぐに気付くはずである。
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