2009年6月25日木曜日

Guilin 24

ようやく12月から続いた長い繁忙期が終わり、7月の頭に2週間ほど休暇をとってイタリアに行くことに決めた。もう来週か。本当は6月の下旬から、と思っていたが、今年はやはり問題が山積みで、一時は終わらないのではないかと心配したが、何とかなるものだ。今チケットをウェブでひたすら予約している。直前だが何とかなる。冬に行った香港・広州・桂林以来なので、半年振りというところである。まだ写真の整理が終わっていないが、いつもと同じパターンである。旅行の手配は、色々な本を買ってきて調べて、予算と比較してプランを練っていく。この作業はなかなか大変だが、旅行というものは行けば楽しいということが分かっているから、何とか乗り越えることが出来る。ヨーロッパはしかし美術館や博物館の入場料が高い。それだけ美術というものに価値があるということなのだろうが、私のような素人は、もっと勉強しなければそこに価値を見出すことが難しい。興味がそこまで強くならないのは、稀少性が突き抜け過ぎていて、現実に落とし込むことが難しいからなのかも知れない。

CFAの試験があったせいか、体にダメージは残ったままではあるが、久し振りに仕事から解放されることで、この酷い肩凝りや腰痛もきっと治るに違いない。ダメージがあるのは、試験結果が淋しいことになりそうだからという説もある。イタリアから帰ったら、小さい会社の監査をして、8月のお盆からニューヨークに1週間、そのあとバンクーバーに9月の中旬までと、海外にいる時間が少しだけ長くなる。可能であれば、バンクーバーでの研修の後で、どこか他の街に1週間くらい滞在したいところである。イタリアはもちろんのこと、ニューヨークもバンクーバーも遊びに近いが、日本、あるいは自分自身を見つめなおす時間を持てるのは有難いことである。読みたい本も随分たまってしまった。ストレスが無ければリズムも整わない。一定のストレスがあることで、それに対する反応が生まれる。人生を振幅させるためには、仕事と旅行が必要なのだろうし、何もしない時間というものももちろん合って良い。自然な状態に近いものとは、どのような状態なのかを問い続ける、ということである。

人類の成長は止むことが無いように見える。限界を感じれば、新たな空間を見出すために努力を続ける。これはどのような欲求からなのだろうか。一定の欲求が満たされると、次はまた新たな欲求を求めていく。マズローは今生じている不満を知ることで、いかなる欲求は満たされているのかということを理解できるので、その人間の健全さを知ることが出来るという。最終的には何を求めるのだろうか。ただ満たされて生きるということよりも、大事なことがあるのだろうか。経済成長の結果として生活の利便性は高まることになろうが、インフラ面での利便性の向上というものは、達成されている訳であり、結局は好奇心みたいなものが原動力になるのかも知れない。戦略も何もなく単に知りたいということを否定することなく、競争の中に生きつつも、自分の好奇心を殺さないようにする。それが世の中のためになれば良いな、というところで自己の欲求の領域は出ていないようにも感じる。

今はまだ長い登り坂の途中にあるのだろう。成長の止まった米英は劇薬を服用してしまったのかも知れない。日本は更に成長は止まっているし、何も考えずに生きようという民主主義の悪い面ばかりが膨張してしまっていて、政治家がダメだから将来が見えないのではなく、メディアやそれに踊らされる大衆というものが、理念なき世論を形成することに問題があるように思う。ヨーロッパの先進国もその成長を止め、あとは新興国の成長力を糧に技術を売ることぐらいしかないという状況に陥っているとされる。今は新興国の成長が、先進国の衰退を補うが故に、世界経済は数字としての成長を続けている。いつか、これがマイナスになる時代は来るはずであり、人類の飽くなき執念、貪欲さというものも、満たされてしまう時が来るのではないか。なだらかに、というよりも気がついたら人類全体としての生活水準が下がっているということになるだろうか。しかし経済が成長することで、蓄積するものがある。これは失うことが無いわけで、過去の状態に戻ってしまうということもない。自分の人生が、長くてもせいぜい70年80年しかないせいで、その先の未来を見ることが出来ないというのは残酷である。

不平不満を言いつつも、暮らしが悪い訳では無い。日本という国だって、暗いニュースしか出てこないが、人々は日々の暮らしを楽しんでいたりする。いわゆる庶民にとっては、政治や経済という話が大きすぎて、マスコミの言うようなアホな情報に踊らされるだけであり、そういった情報というものは一種のフィルタをかけることで無かったことにしてしまう。日々の目の前の出来事には、多くの場合影響がなく、影響があったとしても多くの過程を経過ぎていることで、因果関係を見出すことなど出来るはずがない。アフリカで感染症によって大量に人が死ぬのも、日本の多くの大衆には全く関係のないことであり、無理に理由をつけて、種の調整であると考えれば気にならないのかも知れないが、それすらもいつか改善される時代がやってくるようにも感じる。人間の考え方がそれほど合理的であるとは限らないが、多くの人が正しいと感じることが感染していくように広まるという原理がプラスの方向に働くのであれば、今は理解しがたいような考えを持つような人間も合理性を取り戻し、人々がよりよく暮らすということを推し進めることになるかも知れない。

しかし何故人が生きるのか、というところには辿り着けない。人類は常に自己の生存を正当化してきたという点では、原住民という意味での地球環境からすれば驚異の存在である。理性というものは幻に近い存在であり、環境が健全な状態に保たれなければ発揮されることはない。従って、満たされるまでは欲求を満たすことに専念するエネルギーが働く。理性というものの存在は認められるものの、これは必要な時には登場しない。人類が自己の生存を否定するような方向で働くことは、可能性は0ではないだろうが、生きる意義という理解不能と思われる概念を省略して暮らす大衆にとってみれば、「生きる意義など知らないが、なぜ自分が死ななければならないのか」と言うのが自然である。究極の合理性など追求できないのが人間であり、無理に仮定を置いて出した答えに何の意味があろうか。

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