2009年2月11日水曜日

Guangzhou 13

1つ確かだと言えることは、春が近づいてくると共に、花粉症の季節がやってくるということである。毎年1月の後半から2月の初旬にかけて、アレルギー症状の悪化というものを感じ取り、すぐにマスクをつけて外に出るようになる。これが4月か5月ぐらいまで続くわけであるから、実に1年の4分の1程度はマスクをつけた生活をするはめになる。これは公害以外の何者でもないと思う。札幌に暮らしたころはアレルギーとは無縁の生活だった。東京に来てやはり体調は悪化していると言えよう。空気の汚さというものが、人体に及ぼす影響と言うものは確実にあるということである。しかし排気ガスよりも花粉の方が影響が大きいとは、何とも納得し難いのである。これにより医者に通い薬をもらい、アレルギー検査のために血液を抜き取られ、ついでに高い金を払わなければならない。自分の体調管理など自己責任の範囲なのだろうが、過去の政策のツケを子孫に払わせているようなものである。これほどに街中にマスクをつけている人が多いにも関わらず、何の対策もしないというのも不思議な話である。
安易なやり方は最終的には間違った結果に結びつく。自分がその時点では正しいと思いながら事を進めると、実はそれが原因でボトルネックを生み出したりしている可能性もある。自己を省みるというのはそれだけ難しいことなのであるが、それが出来なくてはチームというものは機能しない。前に進んでいたつもりでいても、分岐点を誤ったことで取り返しのつかない状態になっていることもあるだろう。根本的な原因はリーダーシップの欠如であるのかも知れない。考えていることがそれぞれにおいて異なったとしても、同じ方向を向くことさえ出来れば雰囲気が悪くなったりはしない。これは時間が解決するような性質ではないのだろうが、そのような教育をされていない者が気がついてすぐに出来るようなことでもない。組織では良くあることなのだろうが、専門家の集団においてはそれ以上に発生しやすいことなのかも知れない。甘やかして多めに見るということが、必ずしも機能する訳ではないし、要求水準を高くし続けてしまうと、達成感を得られない若者はそこで心が折れてしまう。
CFAのテキストを読み始めて既に5ヶ月が経つが、やはり英語の読解能力というものは絶対的な文章の量を読むことも大事なのだと少しずつ実感する。Level1で約3000ページ、Level2で約3500ページというところだろうか。最初は相当苦労した。分からない単語が多すぎて、辞書を引くことでかなりの時間を割いてしまっていたように感じる。最近はさすがに特殊な単語以外は辞書を引くこともなくなった。しかし、ファイナンスや会計に偏った語彙力も、日常会話となればあまり役に立たなくなってしまうのかも知れない。色んなジャンルの洋書に当たることを心がけたいが、CFAのテキストのような爆弾を抱えた状態で更にそれ以上の英語の分厚い本を読むとなると、唸るしかない。何というヘタレか。とりあえずドラッカーを読むことにして、下記の2冊。本当に基本的な事が書いてあるが、自分の考えに傾倒してしまっている状態を修正する時にはやはりこういった本を読む必要がある。他力本願であるようにも思うが、精神的な部分を鍛えるためには日々悩み解を探すという、当たり前のことを継続してやる必要がある。

自分の能力を疑いたくなる時もあるが、それは精神状態の波の1つであると割り切る方が良い。自分自身というものは、日々大きく変動するようなものではなく、根本的な部分は同じなのであり、何かが足りないとすれば、いきなりそれが足りなくなったのではなく、よくよく考えてみればずっと足りていなかったということではないか。単に見方を変えたら明らかになったということで、それにいつ気付くかと言うのはきっかけの生じるタイミングによる。それをあたかも突発的に生じたことのように話すのは、少し違うのではないかということである。獣医を目指したきっかけとしては、動物の行動の裏づけとなる心理のようなものに興味を抱いたということが大きかった気がするが、中学生の最初の頃なので、あまり覚えていない。しかし、それ自体は今でも興味があることであり、逆に万物に適用可能な普遍の真理であるように思う。何が原因なのかを私のような普通の人間が知ることは恐らく無いだろうが、いつかアインスタインとかニュートンのような天才が現れて、また多くのことを解明するための鍵を人類に与えるときが来るだろう。
テレビに出ているような芸能人などが寄付やボランティアに走るのはイメージアップというよりも既に今の生活において何かしらの達成感を得ているからであり、偽善と言う訳でもない。競争に勝ち抜いたという安堵感は、やがて他人のためにという方向に昇華される。一般市民でボランティア活動に興味が無い人が多いのは、現代社会ではむしろ自然なことであり、自分に余裕が無いにも関わらず他人など助ける訳が無いというのが本音なのである。これにボランティアを強制するようなことは難しい。かつてそのような世界が存在したかどうかは知らないが、中国共産党による共産主義ではそれが達成出来なかったことは確かであるし、日本の一時期の社会主義に近い資本主義も結果として競争に飲み込まれた。出来ることと出来ないことがある。しかしいつか出来るようになるかも知れない。昔なかなか出来なかったことが、今では習慣になっているようなものは沢山あるし、それは色々なことに該当するはずだから、少し待てば良い訳である。資本主義における再分配という点では、小市民が微々たる金を募金することよりも、ビル・ゲイツやバフェットが基金を立ち上げてその運用益を分配するというやり方の方が効率が良い訳であり、そのために彼らはそういった人格を備えるに至ったと考えれば、分かりやすい。苦労していない金持ちは他人のことなど考えない。寄付という概念も恐らく無いであろう。そこで欲求を満たすことが出来なかったからである。

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