2008年12月26日金曜日

Ebisu 10

放射冷却により急激な気温低下を見せた今日の東京。久々に札幌の寒さを思い出すほどである。クリアな空についカメラを向ける。年内最後の営業日を迎え、残った仕事のヤマには目を瞑り、多少の罪悪感と解放感を両方併せ持って香港・広州へと羽田からフライト。途中の桂林へのチケットは手配が未了ではあるが、広州での滞在を長くすることも出来るだろうし、あまり考えていない。8月以来の旅行である。広東省エリアは中国経済の2ケタ成長を牽引してきた世界の工場であり、広州や深圳を主要都市として抱える。深圳には一度足を踏み入れたことがあるが、経済成長を実感するような経験をした訳でもない。今回訪れる広州では、工場の閉鎖が相次ぎ、失業者数が急激に増加しているという。治安の面でもそもそもあまり良くないという話であるが、悪化しているということは容易に推測される。中国の都市は人口も多く、一般市民はまだ十分な道徳水準にあるとは言えない状況にある。切符を買う場合に並ぶというようなことが出来ない人は当然日本より多い。
アメリカの不動産価格の上昇と、ホームエクイティローンによる借入消費主導型の経済が破綻し、結果として中国と日本という米国を最大の貿易相手国とするアジアの国は経済成長をストップさせた。中国は公共投資に莫大な金を使って、経済成長路線の立て直しを図るが、様々な問題を抱えていることが足枷となっている。それでも成長していくことは間違いないだろう。日本が高度経済成長をした時にも、様々なものを乗り越えた訳である。ただ今回の金融危機、あるいは経済の凋落というものは100年に一度のものであると言われている。これがどの程度の影響を与えるのか分からないし、経済成長の巻き戻しが思ったよりも厳しい場合がある。蓄積した人材や工場などの資産も、使う場所がなければ成長とは呼べないからである。監査法人も経営者達は人を増やせば成長した気分になるのかも知れないが、殆どが遊休資産の状態であり、これを資産と呼べるのかは微妙なところにある。積み重ねる中でも取捨選択をし続けなければならないのは当然のことである。中国経済の中でも、遠きアメリカを震源地とした経済危機で最も揺れた広東省。これをこのタイミングで見ることが出来るという巡り合わせに感謝しなければならない。
現地に行くことで、海外に対する情報の見方というものはまるで変わる。特に日本で報道される中国などの情報にはバイアスがあって殆ど意味が無いわけで、実際に見に行くに限る。全てを失った訳ではない。所詮は人為的な危機である。多くの人は普段通り仕事をして、単に株価が下がったことで不況なのだろうという認識をしている程度である。日本だって不景気を煽るようなニュースを一斉にマスコミが報道することで、関係のない人まで不景気を実感する訳である。消費者は敏感なので、消費も滞る。これが情報の偏りによる負の連鎖である。金融、不動産、自動車という業界に勤める多くの人は日々不安である。それでも日本の企業はまだマシなのかも知れない。不動産は瞬間的に謳歌したREITバブルを反省すべきである。まあ彼等に反省という文字は無いかも知れない。自動車もそもそも不要であるという方向に向かうだろう。将来にわたるインターネット等の更なる発展により移動する必要が無くなることが想定されるからである。必需品ではなく、ただの贅沢品として自動車が扱われる時代に戻れば、原油の価格が上がることもない。過去の人類の歴史を思えば、技術革新による効率化が枯渇の危機を乗り越えてきたように見えるが、今後の技術革新というものはどこから訪れるのだろうか。過去にしがみつく日本では無いように思う。
天才という存在はすでに日本では生まれなくなり久しい。たまにいる猛烈な秀才は、生まれる国を間違えたのである。多くの民にとって平和で暮らしやすかった日本というものは、既に幻想であり、全てのものを捨ててでもそれに備えなければならない時代が来ている。フラット化する世界で読んだ内容は、海外旅行をする度に現実であるということを認識させられる。自分が普段取り込んでいる情報というものが、いかに偏っていて、いかに詰まらないものであるのかということに気付かされる。会計士だろうがCFAだろうが、道具だけを学んだとしても、そのインプットの元となる観察対象、つまり情報というものの質、あるいは量というものが、結果を左右してしまうのであり、真実に近い情報、源流をたどる作業というものをやはり繰り返さなければならない。これは金と時間がかかる。金は無限にすることが出来る人もいるが、時間を無限にするということは、遥かに難しい。旅行に行くことで、普段よりもリスクがあがる。この結果として、自分の人生が終わってしまうという可能性もあるのである。その時は誰にどうやって情報が伝わるのだろうか。そういった先を見通すほど余裕がないのが、この12月、師走というものである。

2008年12月25日木曜日

Ebisu 9

結果としてクリスマスイヴも終わり、イルミネーションの明かりも消える時間になっても帰れないという状態である。ビルの中も暖房が消え、だんだん寒くなってくる。お茶を電子レンジで温めて、少し暖をとる。伊藤園のジャスミン茶は味が濃くて気に入っている。なぜここまでしてやるのかという疑問。監査に終わりはない。キリが無いということが正しいのだろうか。ここまで来るともはや執念である。AM4:30。東京タワーと競う気は無いが、やつの明かりはまだ消えない。クリスマスだから頑張っているのだろうか。深夜残業は喘息を悪化させる。吸引(アドエア)を忘れないようにしなければならない。医者は良く言う。「予防が大事である」と。監査は予防なのかどうか分からないが、しょうもない情報が世に出ないようにするという点では予防であり、一方で会社に第一義的にはしょうもない情報を出さない義務がある訳で、そういう意味では予防というよりも治療である。この時間帯になると山手線が走り始める。電車に始まり電車で終わる。長いこと待ち構えているタクシーのおっさんには悪いが、何せ不景気である。おっさんも缶コーヒーやタバコを我慢すればよいだけのことである。

2008年12月23日火曜日

CFA 1

写真もネタ切れなので、何か貼るネタはないかということで、少し読んだ本の整理でも始めようと考え、ついでなのでCFAの備忘録などもアップロード。本を読んでも、メモを残しておかなければ、結局探すのに時間がかかるので、サマリーなどを作成。
CFA Lv1の勉強を始めたのは、去年の9月とか10月だった気がする。結局会計士の3次試験みたいなものと重なって、その後仕事が忙しくなり、まともに始めたのは3月に入っていた。そして3月にはスペイン・フランスへ2週間ほど旅行に行き、また4月5月と繁忙期である。季節労働者の辛さでもあるが、6月に試験があるというのは無謀である。基本的には、CFAIから送付されるCurriculumなる3000ページほどもある教科書を読み、章末問題を解いた。とは言っても、試験の2週間前のことである。なお、この試験のせいで、東京優駿を府中まで見に行くというツアーは断念し、勉強することとした訳である。
Lv1は何故か合格し、来年の6月にLv2を受ける。日本国内では1000名程度しかいない超マイナー資格であり、これをとったところでメリットと言えば、英語が読める、タフネスが身に付く、金融に少し詳しくなる、といったところであり、私の場合は仕事で少し使えることを除けば殆ど趣味に近い。勉強に先立って、先人が残した参考書があったので、何をして良いのか分からない私は購入し、何度か読んだ。概念として分からないものなどがあれば、参考書がわりに読み、Ethicsのような苦痛な科目については、CFAIのCurriculumに挫折し、この本にある箇所だけを読んで試験に臨んだ。

2008年12月21日日曜日

Ebisu 8

長時間働けるかどうかということは、仕事の内容にもよるのだろうか。決まりきったことに対して、当てはめていくような作業でうまく行かないような場合が一番気が乗らない。最初のうちはこういったことの繰り返しであり、猛烈な事務処理能力と不毛だがトライアンドエラーの精神が必要である。非常にストレスが溜まる。こういったものに長時間時間をかけている人もいるが、ただの時間の無駄であろう。事務処理をこなしていくうちに法則性を理解し、それを使って応用できるようになっていかなければならない。そこまでに辿り着く時間には個人差があり、使う側はそれを理解しなければならない。 事務処理が出来ないのに、それしかやらせてもらえないなどと言う人もいるが、自分を客観的に見れていない証拠である。結局のところ、一定のラインを超えるまでは暗記である。しかしながら、当然その背後にあるのは基準に対する理解であり、そうでなければ実務で使おうと思った場合には、結局分かってなかったということになる。ただ知っているだけでは駄目なのである。試験勉強で学ぶようなことを実務に落とし込むにはやはり訓練が必要である。その時点である程度知っているのと、そうでも無いのとでは網羅性という点で差が出るのは当たり前である。知らないというのは論外である。
結局のところいつもの結論であるが、試験で点を取るのは簡単である。しかし試験で点を取れる人間が実務で使えるかというとそういう訳でもない。圧倒的に点をとれる人間は使える。しかし何故か試験だけに強い人間も存在し、こういった人はなぜ仕事が出来ないかというと我慢弱いからのような気がする。実務で要求されることと、自分の持ち合わせとの差を埋めることが出来ない。これは大変だからである。結局仕事よりも試験の方が大事で、そのまま辞めて行ったりする。転職したりしても結局分かっていないというのは同じなのだろうな、と思える。30歳を超えるぐらいになると少しラクをしたいと思うようになるのだろうか。いずれ結果が出るだろうが、そうでも無いように思う。登るべき山は高い。結局周囲の人間からのプレッシャーがある限り、それ以上のペースで走り続けることは必要であるし、そもそもそうでなければすぐに辞めることになる。自分の弱さを環境のせいにしたりすることもあるが、それを克服できなければいつか自分の首を絞めることになる。現実から目をそらさないということが出来ないのは何故か。
打たれ強さの根源とは何だろうか。これを鍛えていく事は出来るのか。それとも先天的なものなのだろうか。私は打たれ弱い方だと思う。だから打たれないように自分を守っていく必要がある。時に打たれればそれによって全身が揺れる。それを繰り返すことによって慣れていくのだろうか。自分の身を守ろうとしているのか、それともプロとして付加価値を提供したいと思っているのか。ベクトルは同じである。どちらかに分けるということは出来ないのだろうなと思う。本当に優秀な人はこういったことを疑問に思わず付加価値を提供しているように見える。根暗な人間は悩むしかない。悩んで自分を改善する。息をつく暇がないのは仕方ない。それでも悩むという時間が言葉を吐き出し、消化するために書く時間を作る。ふと思ったが、打たれ強さというのは復習をするかどうかということなのだろうか。打たれないためにすることは予習である。打たれ強さというのは打たれた後にどうするのかということであり、精神的な回復力の早さが次に向かわせる。意外と切り替えが出来るように思うが、これはB型という血のせいだろうか。
意思決定の連続では、常に代替案との比較を求められる。現実社会では、代替案間での重みというのは、その人の主観によるものと、客観的なもの、つまり世間一般で言われるようなことを一部考慮する訳である。自信を失っている時は、主観の重みが減る。他人の言うことに流されやすいからである。意見に流されるのではなく、柔軟に取り入れるということが出来れば良いが、結局その時の市場環境や体調などにもよる。この主観による重み付けは、解明することが難しい。単に貨幣価値だけで測定できないのが人生である。しかし一定のラインまでは貨幣価値で測定する。その一定のラインというのは、結局のところ地球上の90%ぐらいまで含んでしまうようなラインなのかも知れない。やりがいというものを求める水準になるためには、経済的な満足ありきであるから、そこまで辿り着ければしょうもないテレビの番組や大衆誌では自然と勝ち組と呼ばれているはずである。しかし、そういった人々も更なるものへの渇望がある。上には上がいて、上の上には上がいるという現実を知り、そこでまた悩むのである。
生きるためには色々な能力が必要であるが、目指すべきところは、教養のある哲人であることは万人にとって普遍の真理である。これは分かりやすい。それぞれの時代において求められることは変化する。しかしこの真理は変化しない。残念なことは人が変化してしまうということである。テクニカルな部分で時代から取り残されるようなことがあれば、自分には教養があるから大丈夫、という余裕は無い訳である。結局うまく行くという状態は殆んど有り得ず、自分の中の精神的な需要と、能力から来る供給というものがマッチする瞬間というのは一瞬であり、むしろ一定の幅の中に収めるように努力し続けているというのが実感である。法則性を見つけることが出来れば、それは表面的な技術よりも役に立つ。応用が利くからである。何をすべきかという問いには全てすべきであると答えたいところであるが、時間には限りがある。睡眠不足は生産性に大きな影響を及ぼす集中力の低下をもたらす。長い時間をかけて長い文章を書いていると、何が言いたかったのかをもはや思い出せない。集中力の無さとはそういうことである。もう少しものを書くときにまとめて書くようにしなければならないと最近実感しつつある。文章のうまい人というのは頭の中がすっきりしていてやはり賢い。私はどうも色々なことをめちゃくちゃなタイミングで考える癖があり、それで脳内に混沌を生み出してしまう訳である。脳の処理能力が勝手にあがるようなことは無いのか。


Ebisu 7

光に安らぎを求める人々。














Ebisu 6

マーケティングに脚色されたものを購入することを止めるだけで、幾らかコストの削減になるはずである。日本の消費者はデフレを生み出した頃は多少賢かったのかも知れないが、それに慣れ、企業が価格を維持するために行ったコスト削減の努力の恩恵というものは無償のものであると信じた結果、愚かになった。中国製品を嫌悪するのは、ある意味反中感情が反映されている。日本国内での不祥事もマスコミがとりあげなくなると忘れてしまうが、結局コスト削減の圧力というものが、効率化等の限界を超えた点にまで達し、質を下げざるを得なくなる。消費者は多少の変化には分からないし、それに慣れる。そして更に質を下げる。日本の製品が世界一の質を保っていると考える方がおかしい。グローバリゼーションというのは、日本人のそういった幻想を打ち砕くものなのである。中国ですら、既にコスト削減の一時的な限界を迎えている。技術の革新により、更にコストを削減する可能性はあろうが、それでも今までの成長を維持するということは並大抵のことではない。2桁成長を5年6年続けるということは、国の経済規模がそれだけで2倍になることを意味する。反対に価格が高騰する時には、質を改善しようという意欲は湧かない。勝手に売れるからであす。そこを真面目に取り組んでいる企業というのは、骨太な組織である。
短期的な利益に着目してしまうのはマーケットの仕組みによるものなのだろう。プライベートエクイティ投資などで、ある程度長期的な視野でビジネスを行うことが出来るような投資というのも最近では規模が巨大化し、マーケットでの存在感も一段と大きくなっている。日本人の感覚には、長期的な投資というのが合うのかも知れないが、日本経済の縮小というのは避けて通れない。よく見る予測では、2020年には、現在2位の経済規模である日本は、5位、6位になっているということであるが、自然なことだろうなと思う。移民を受け入れることもなく、言語の障壁も高い。文化も独特であり、むしろ島国としてここまで経済を発展させたことの方が奇跡である。時代の流れに乗り、時々頭角を現していたアジアの小国は、今後もまた世界から注目される時が来るのだろうか。円安を享受した時代は、世界的な利下げ、通貨安に押し切られ、しばらく帰ってこない。となれば、割高な日本製品を買う外国人は減るし、観光客も減る。経済成長だけを目標にした場合には、縮小の一途をたどるっていることになる。税収は減り、削減されるものも多く出てくる。それでも本来無駄が多いはずで、大した影響はないはずだが、年度末に無駄なことを行って予算の取り合いをする官公庁のおかげで、大事なものが知らぬ間に削減されていたり、経済的な事情から働き続けなければならないがゆえに、安定的な所得税の納税者となっているサラリーマンが搾取される状態を生んだりする。
ゆとり教育という取り組み自体は、結果として大きな失敗だったとは言え理解できなくもない。競争だけでは成長できないということもアメリカとイギリスによる巨大な実験によって明らかになったところである。競争原理というものは、確かに様々な欲求を満たして来たが、結局のところ組織や社会という単位で動かなければならないものを全て単一の尺度で測定することは難しかったということなのであろう。ただ日本が取り残されることで、貧しくなるということは望ましくないと考えれば、世界の標準に合わせていくことも必要となる。企業は真っ先にそれに取り組んだ訳で、大きく収益を改善したり、グローバル化の恩恵を受けて成長することが出来た。ただ、国民はどうなのかということである。そういった意識を高めることができたのだろう。未だに国が豊かであるおかげで日本人はプライドが高いが、それを上回らんとする国はすぐ隣にあるのだし、英語も日本語もできる外国人というのが増えている現状を見過ごしているわけである。労働環境の分散が出来るということ、それからハングリーさがあるということ、といった要因を考えれば、どちらに投資をした方が効率的であるかは分かるはずである。日本の文化は評価すべきところもある。かと言ってそれだけですましているわけにはいかない。
自分に何が出来るのだろうか。それを理解するには能力の無い人間にはきっと時間がかかる。周りに色々出来る人が沢山いるからである。自分に出来ることや、自分が気づいたことを他人に押し付けないようにしなければならない。それは一時的なものであるかも知れないし、本当は裏付けのないものであるかも知れない。何よりも自分に何が出来るのか、ということよりも、自分が組織や他人に対して何を出来るのかということが重要である。一定の証拠を示し続けなければ、何もしていないのと同じであるし、何もしていない状態で口先だけで仕事を拒否するようなことをしていれば、やはり組織にとっては害であるし、他人に必要とされなくなるのである。本人もいずらくなることは分かることで、結局のところ後悔しても遅いということなのである。時間は限られている。何年も前に遡って色々やり直すにはコストがかかりすぎる場合が多い。現状を受け入れるということで、そういったコストを発生させずに済むかも知れない。積み重ねたものを壊すためには、時間はそれほどかからない。しかし同じ場所に新たなものを建て直すには時間がかかる。それでも良いという場合もある。定量的な評価だけが正しいわけではないのが社会だからである。
最近はそれほど内容がある訳ではないが、書く量が増えていて、そのせいで写真が追い付かない。仕事が忙しいときほど色々なことを考えて、アイディアをまとめるために書くのかも知れない。あるいは、鬱な状態を解消するために書くのかも知れない。私は書くことでスッキリする傾向にある。誰に伝える訳でもないが、思うがまままとまりの無いことを書き綴るという所作は自分の中の何かをうまく消化してくれているということである。CFAの勉強を続けているせいで、あまり本を読めない。特に日本語の本を集中して読む時間を作ることが出来ていない。会計基準のような専門書は読まざるを得ないが、人格はきっと歪んでいるはずである。そういった専門書というのは道具を学んでいるだけであり、人間として成長するかどうかと言うと、そうでもない。自分自身を客観的に測定する、といったことが出来るようになって、問題点を指摘し、修正できるようになれば良いのだが、実務の中でもそういった本に書いてある知識が役に立つことが少ないように、人間を矯正していくということは、そんなに容易いものではない。書いてあることを理解して自分の中に落とし込むだけで時間がかかるし、それを実践し、繰り返すというだけで更に猛烈な時間がかかる。その結果として、行ったことが効果をもたらすかどうかというのも不確実である。結果というものが分かっているような場合はラクなのだろうが、なぜかそういったものにチャレンジする時にはモチベーションが起こらないのである。自分の中にこういった矛盾を抱える状態が、均衡を崩すと何も見えなくなる。それが日常生活の中に人間が張り続ける糸であり、苦しんでいるような人がいれば、この糸を切らないように徐々に緩めることに協力することが必要とされる。

Ebisu 5

黄昏の雲に浮かぶ富士山。世界遺産登録される日がきっと来るであろう。日本人の心に影響を与えていることが評価されるはずである。

会計監査の必要性というものを理解する機会というものが、ファイナンスを敵視しがちな日本ではあまり無い。有価証券報告書というものの存在を知らない人が全人口の90%ぐらいだろうか。読み込んで業界比較をしたりすると、こんなに面白い読み物も無いように思うが、会計や業界知識なくして素人が読み解くのは難しいのも分かる。ではそういった人たちには何も関係無いのかというとそういう訳ではなく、企業が資金調達するに当たっては、投資や融資をする人たちは必ず財務諸表を見て評価するし、必要があればDue Diligenceを行ったりする。結局監査人の意見が出ないような会社は、極端な話上場廃止になって資金調達できない。そのまま財務諸表を使えば痛い目を見ると言われているのに投資をするようなチャレンジャーもなかなかいない。債権者にしてみても同じである。株式に投資するのか、融資して債権を持つのかということは、法的な形式は違うが、結局のところ企業が将来キャッシュフローを獲得する能力を評価することが重要であり、その評価の元となる資料の大きなものが財務諸表である。
その財務諸表に嘘が書いてあれば、監査人は意見を差し控えたり、不適正意見を表明したりする。適正であっても、手続が不十分だったりした場合には、限定項目を書いたりする。このために猛烈に地味な作業を延々と繰り返す季節労働者が監査人(Auditor)という職業である。多くの個人投資家にしてみれば、監査報告書が何なのかを理解できないはずである。専門用語の羅列は裁判に勝つための道具のように見える。会計士試験の際には訳も分からず暗記したような記憶があるが、重要なことが書いてあるのだと今は強く思う。監査というのは不思議な立場で、独立の第三者として企業の帳簿を見たりする訳であるが、結局のところコミュニケーションが最も重要であって、単に会計とか監査を知ってれば良いということでもない。会計士自体でも、監査が何の役に立つのかを知らない人も多い。これはマーケットというものを理解していないからである。会計士は不断の自己研鑽が求められている。経済を知り、その事象を会計に落とし込むのはそう簡単に出来ることではない。クライアントの協力無くして、監査は成り立たないし、そのためには常に学び続けなければならない。信用というものがそこには必要なのである。
プロフェッショナルとしての説得力というものは、OJTで学んでいく形になっている。例え監査法人であっても、素晴らしい人だけがいる訳ではないのは、世の中の多くの会社と同じである。必要な能力というものは、マニュアルには書いていない。そもそもマニュアルは出来ない人でも自動的に出来るようにするためのものであり、最低限の水準である。かといってマニュアルがあっても読まなかったり、それを無用の長物だとして切り捨てるような人もいる。何度読んでも新たな発見があるものであり、こういったことを理解出来ないのはやはり能力の欠如である。どこまで深く掘るべきかということを理解せずして、日々の業務に押しつぶされる状況を脱するのは不可能である。悩む時間を作るためには、諸所の作業を効率的にこなすことが出来なければならない。しかしボトルネックが生じることもある。ボトルネックを取り除くのは管理者の努めであるが、被害妄想的なボトルネックの人間の阻害行為により、いつまで経っても解消されないのがその性質である。
夜になると景色も変わる。地球が自転するからである。いつまでも太陽の光が出ている気分で暮らせば間違った意思決定を行うことになる。運転するときには車間距離を開けるべきだし、ブレーキを踏むタイミングを少し早くする必要もある。日々の繰り返しを何となく生きることは勿体無いことである。日々の繰り返しというのは、同一の環境における行動のサンプルを採取することが出来ることを意味し、これを大量に蓄積することで行動をパターン化することが出来るからである。電車の中でNintendo DSでドラクエをやるのは構わないのだろうが、他にも出来ることはある。私の場合は、CFAのでかい教科書を広げて、青のペンと黄色の蛍光マーカーをYシャツのポケットに突き刺してひたすら読む。何ページ読めたのかということを測定すれば、その日の体調や集中力というものが分かる。ただ多くの場合には居眠りに繋がる訳で、残念なことに居眠りしていた時間を正確に測定することは、当の本人には難しいという現実がある。CFAの教科書もある程度読み進んだが、復習は殆んど出来ていない。あまり長い時間あけると全て忘却の彼方へ押しやるのが人間の脳である。
CFAに合格したところで人生が変わる訳ではない。その過程で獲得されるであろうアナリシスの能力というのは、アニュアルレポートや有価証券報告書をより面白い読み物にしてくれる。会計を学ぶモチベーションにもなる。なかなか日々の業務の他にハードな勉強をすることは磨り減るが、今やらなければ二度とやらないし、やらないで良いと割り切れる性格ではないので仕方ない。試験に受かること自体は難しいことではない。しかし実際に実務において使えるようになることは難しいだろう。実務では100%以上を求められているのであり、試験のように70%とか80%で済むような話でもない。90%でも足りないのである。90%で満足していてはプロフェッショナルではないし、その90%にすら達しないのに被害妄想でパワーハラスメントを主張するなどという行為は、愚行と切り捨てよとDruckerも言うのである。切り捨てるという行為を厳然と行うことは難しい。人間の感情がつきまとうからである。しかし布石を幾つも打つような時間もない。その時には介錯人のセンスが問われるのである。

Ebisu 4
















Ebisu 3

自分が生きる中で発見した経験則というものが、既に本に書かれていたりする。人間の思考というのは同じような環境にあれば、似たような結論を生み出すということである。そういった場合には共感することもあるが、同時に自分の考えは既に古いのだと感じる。しかし他人が考えたことを考え直す時間と言うものは無駄ではないし、むしろ重要である。経験を書いた本を読んでも、同様の体験をした場合と同じように経験が蓄積する訳でもない。十分なデータに裏づけされたようなものがやはり重要である。監査をしていく中で、企業の作成する経営計画などを見たりする訳であるが、それが正しいかどうかなど証拠を集めようがない。将来の事象の証拠などどこにも保管されていないからである。将来の予測というものはどのように行えば良いのだろうか。企業が部署単位で作成する数字を鵜呑みにするのは監査人のすることではない。将来の調達金利がどのように動くかという予測について、マーケットの数字と比較してみても、マーケットは常に変動するし、それに対応出来るかどうかを測定するとなれば膨大なコストがかかる。
最近の会計基準の方向というのは、将来の予測を要求するようなものが多く、既に限界と責任範囲を超えている。会計士が保守的にならざるを得ないのは、そこまで対応することが出来ないためである。これは改善すべき点でもあろうが、監査をやる人間でファイナンスにも経済にも強いという人間はあまりいない。それが出来れば他で沢山稼げてしまう人が多いからである。監査人が稼げないという訳ではない。むしろ世間一般に比べれば多く貰っているはずである。入社直後の人間に普通の会社では30歳で役職がつくようになったぐらいの給料を払う不思議な会社もそんなに無い。もう少し監査人はシフトしても良いのではないかと思うのと同時に、監査という独占業務を聖域として守るためには、あまり他の分野に多角化せず、専門家を使った方が良いのかなとも思う。それぞれの専門家の能力は確かめようが無い。それで最終的には監査人が監査のリスクを負うのだから、本当にそれで良いのだろうか、とも思う。例えば不動産鑑定士に不動産の評価を依頼したとしても、それが正しいかどうかを判断できる会計士など殆んどいないはずである。胡散臭さを拭えないまま意見を表明する。

最初に思ったことが正しかったな、と思うことがある。試験で選択肢に悩んだときによくある後悔の話である。あるいは最初に描いた絵が一番うまかったりする。その後でもう一度描きなおそうと思ってもうまくいかなかったりする。最初と二番目では明らかに何かが違うのである。試行錯誤とはまた違う。最初に結論が出ていることで悩んではならない。人の真似をしてもその結果はきっと割り引いたものにしかならない。求められる内容が増えているにも関わらず結果が割り引かれていたら評価が上がるはずも無い。同じ事をするのであれば、もっと少ない日数で達成する必要があるのである。そもそも他人のコピーに何かを足していく作業と言うのは無駄に思う。自分の思うところを体現していくのであれば、最初からやらなければならない。しかしそんなチャンスが常に転がっている訳ではない。成長を求めるのであれば、自分で何でもやらなければならない環境に飛び込んで、そこで自分で何かを成し遂げることが必要である。上司に文句を言っている暇があるのであれば、何かを成し遂げることに専念すべきなのである。

昼と夜は長く続くように見える。もちろん太陽の位置が変化していくことで、微妙に変わっていくのだが、夕方と明け方というのは目に見えて変化していってしまう。そういった儚さに美しさを感じるということか。人工物でしかないバカラの数億円のシャンデリアに太陽の光が当たると綺麗に見える。朝が一番綺麗で、朝陽があたってきらきらする姿は、何か自然との融和のようなものが見える。人工的に夜間に電気を灯しても、それはそれで綺麗だし、多くの人が集まってきて富の象徴だな、などと思うが、物足りない。脚色しすぎなテレビの番組やニュースに胸焼けするのと同じような感覚で、いつかは飽きていくように思うが、毎年このシャンデリアの前には人だかりが出来る。毎年来るような人もいるのだろうか。1年に1回ぐらいが丁度良いのだろう。毎日見ればそれは飽きるのが当たり前である。たまにイベントをやっていて、歌を歌ったりしているが、それに足を止めるほどに野次馬でもないのがチャンスを逃すようで残念でもある。
ただその時の大衆の気分で市場の心理が回復していくこともあるし、何でも良いのかとも思う。光を見ることで心が落ち着くのは確かである。心が落ち着くから見に来るのだろう。それだけ日々の暮らしというのは不安であるし、将来と言うのはもっとずっと不安である。自分の心が揺れて、こういった装飾の照明の光が風にゆれることで、安定を感じるのかも知れない。





Ebisu 2

今日は一年で一番日が短いわけで、3時に家を出て恵比寿に着くともうこんな黄昏である。シャンデリアの周りには沢山の人がいて、写真を撮っている。で、私はそういう人達を撮っている。ひとりひとりの人間はその人にとっては主体であり、こういった群集に囲まれていても自分が主役であると思うことが出来る。他人など気にならないのである。電車の中で他人が話している内容を聞いていると本当にどうしようもないことを話しているなと感じることもあるが、私の話すないようもそう思われていることだろう。世の中に対して重要なことを一個人が発信するということは殆んどないのである。一国の総理大臣だって、今影響を及ぼすことが出来るのは16%とか20%とかそういう数字である。マスコミが煽り過ぎなように思うが、それでも代わりを用意できないのが今の自民党であり民主党というところか。金利もまた下がった。やはり日本ってデフレなのか、と思う。それよりも大事だと政治家だけが信じることがあるのだろうか。放っておいてもそのうち円安になるように思うし、バブルは今の状況では発生しない。
昔経済学の教科書で読んだ流動性の罠というやつか。ついこの間も日本で発生していたこの流動性の罠というものは、民間の金利を犠牲にして、下手糞な銀行を救ったということである。当然名目金利の低さを嘆き短期的な投機に走りがちな個人投資家は、スワップポイントという日銭を稼ぐために外貨投資に走る。未だにデフレ状態にある日本という国は、既に他国よりも実質金利が高いという場合もあり、積極的に外貨投資もなされないのだろうか。マーケットに参入する勇気と体力を失った人も多いのかも知れない。結局現状では、金融政策は無意味で政府が莫大な金をつぎ込むしかないということになっている。アメリカでBig3を救うということは、日本人の税金で米国債を買い倒産すべき企業を救うということである。これは世界最大の外貨準備を米国債で保有する中国も当然に米国債を買うわけで、なぜか未だに日本が先進国中国にRemenuationとして払い続けるODAもその中に入っているのだろうかと思う。マネジメントの父ドラッカーの言うところに従えば、いかに無意味なことかが良く分かる。The Daily Druckerの最初から読んでいくと、1月5日のところに下記のようにある。
"5 January Abandonment" There is nothing as difficult and as expensive, but also nothing as futile as trying to keep a corpse from stinking. 上田先輩風に言えば、「死臭を防ぐことほど手間のかかる無意味なことはない」といったところである。アメリカ人は本の意味を理解するまで読める人があまりいないのかも知れない。一度廃棄してみれば、きっと立て直すために色々な知恵が絞られて筋肉質な状態に戻ることが出来る。アメリカの自動車産業が崩壊し、失業者が更に増加するのだろうが、そもそもそれ以上に苦しい多くの人が世界中にいるわけであって、Wall StreetやDetroitを救うことよりも、困窮する人たちがインフレに苦しめられるのではなくて、経済成長に組み込まれるような政策を考えるために、あるいは実行するために金を使った方が良い。自国の経済規模によって人生にチャンスを与えられないというのは、仕方ない部分もあるのだろう。競争というものがそういったものであり、底辺を拡大し続けることでしか、いつしか成長できなくなることは当たり前である。
資本の効率性を高めるためには、稼げる人に金を回すということであり、マイクロファイナンスのようなものが発展しない限り、貧困層に資本が回るということはない。猛烈なレバレッジをかけて資本を高速回転して来たWall Streetのビジネスは寿命を全うし、また別の場所を探して資本は彷徨う。マーケットに経済成長の全てを委ねるということは難しい。神の見えざる手というのは、神そのものがそうであるように、人間が生み出した概念でしかなく、結局のところ欲の渦に巻き込まれればフラットな状態というのは生まれて来ない。既に豊かな人はそれを阻止するために核を含めて様々な手段を使うし、様々な障壁を設置しようとする。一方で貧困者は金が無いから略奪するという手段を選び、テロや麻薬などでその地位の逆転を目指す。それだけが全てでないことは良く分かる。全員が豊かな訳ではないし、全員がテロリストな訳ではない。純粋に豊かな暮らしを目指して、必要以上の幸せを望まない人が沢山いる。しかしそういった人たちの意見というものが、反映されるような仕組みは今のところ無い。
オリーブの木が植えてある。実が結構なっていて、オリーブというとスペインとかイタリアとか、そういうイメージだが、恵比寿かぁ、という感想である。これがオリーブの木であるということに気付いている人もあまりいないのかも知れない。夏の暑さを考えれば東京は本当に暑いが、やはり冬にこの木を見るのは不思議である。私はグニャッという食感の食べ物が食べれないので、オリーブの塩漬けも好きでない。ドライマンゴーとか東南アジアの土産として人気だが、なぜあれが旨いのか未だに理解できない。モノを食べることでストレスを解消する人がいたり、あるいはそれがタバコであったりする。大麻の人も最近多いようである。私の場合は本を読んですっきりすることが、ストレスを解消する手段なのかも知れない。そんなことは有り得るのだろうか。教科書には書いていないことが沢山あるということは分かっているはずなのに、飯を食うのと同じ感覚で本を読むのは、それがストレスの解消に繋がるからなのか、あるいはマズローの欲求階層説のどこかに落ち着く話なのか。


Ebisu 1

何の気は無しに恵比寿に到着。普段良く来るだけあって、やはり写真を撮ったことは一度もない。恵比寿駅の駅ビルはアトレ。成城石井も入るこの駅ビルで不満を挙げるとすれば、有隣堂の本の品揃えぐらいか。良く行く本屋は、八重洲ブックセンターとか、丸の内丸善、日本橋丸善あたりであるが、一番品揃えが良いと感じたのは池袋のジュンク堂である。洋書を探すときに大体その店の品揃えというものは分かるが、上記3点を上回る規模であったように感じる。ただ洋書はやはり欲しいものがすぐに見付からないこともあり、手にとって立ち読み、というわけにもいかずamazonに頼らざるを得ないところもある。日本語訳の本にも素晴らしいものがあるが、出来るだけ原書に触れたいと思うのは、行間を自分で理解する訓練も兼ねているからなのだろう。残念ながら英語教育という観点からすると後進国である日本の国民であるが故、英語を読むスピードというのは相当な訓練を積んでも行間を読むことを考えれば遅い。
英語で文章を暗記したりすることは難しいように感じる。日本語であれば、試験の勉強のために止むを得ず暗記したりしたものが、今でも残っていたりする。そもそも会計士試験の監査論とか、日本語であると辛うじて分かるような文章が延々と並び、これを暗記するというのは当初は相当に苦痛だったはずである。入社直後は難しく感じていた本も、今ではどこに何が書いてあるのか何となく分かるようになってきている。自分では前進していないと感じていても、客観的な証拠が積みあがっていることを否定する必要はなく、出来なかったことが少し出来るようになっているのである。積み重ねのその先に技術革新がある。会計とか監査にはそういったことは必要が無いのかも知れないが、だからと言って蓄積が必要ない訳ではない。いかにパソコンのスペックが小さくても計算してもらわなければ困る訳である。辛いと思うような出来事は、技術革新へのモチベーションになるかも知れない。そういった修行の積み重ねの回数は、重大な意思決定を日常にもたらし、人間の成長を促していく。
恵比寿ガーデンプレイス。土曜日ともなると、そしてクリスマスが近いこともあり、カップルだらけである。イルミネーション目当てという人もいる訳である。残念ながら、恵比寿の良さというものをそれほど実感している訳ではない。ランチのレベルというのもそれほど高いわけでもないし、そもそも外食が好きではないので三越でお弁当を毎日食べるわけだが、もう食べたことの無いお弁当が無いぐらい食べている訳である。ガーデンプレイスタワーは確か39階立てで、殆んどがオフィスである。このタワーが出来るまでは街としては本当に小さかったのだろうが、労働人口を大量に増加させたことになろう。ただ、恵比寿駅からスカイウォークという名の歩く歩道で10分ぐらいかけないと辿り着かないというのはネックである。遠すぎる。随分オフィスの賃料も下がりつつあるようで、高騰を続けていた丸の内の不動産景気にも翳りが出ている訳である。当たり前だが、会計上も色々なところに問題が出てくる。
恵比寿ガーデンプレイスの居住区も空室が目立ち始めているという噂を聞く。月額200万円を超えるような家賃を払うことが出来るだけで凄いと思うが、そういった人たちをターゲットにしているようなビジネスはどのようなリスクに影響を受けるのかということを今回の金融危機では意図せずして認識することになっただろう。必要のない経費は削減されていく。これは人間の欲求に関連していて、避けることは出来ないのである。生きることを長期で維持できる水準で普通の人間は暮らそうとするはずで、負の資産効果が生じるほどに株価や不動産価格が下落していれば、これまで通っていた寿司屋に行くことも週に1回から月に1回とかに変わるかも知れない。そもそも成金を相手にビジネスをするということは、セレブリティに憧れて無理をして金を使う人を相手にするというようなこともあるわけであり、そういったレバレッジのかかった状態の人がその後どうなったのかは想像に難くない。
人が群がっているこのバカラの装飾というか、シャンデリア?のような物体は、数億円するとかそういう話だったような気がする。人工の光に群がって、綺麗だねと言いながらよう分からんがこの私に写真を撮ってくれと言ってくるカップルはいる訳である。一眼レフを構えてひたすらシャッターを切る私の方がよっぽど怪しいが、断る理由も無いし、撮影してあげる。彼等の記憶にシャンデリアは残るのだろうが、私の記憶が残ることは無い。何が嫌という訳ではないが、不思議なのは観光地で写真を撮ってもらうということは皆ただだと思っているところである。海外旅行に行くと、たまに写真を撮ってくれと頼まれることがあるが、これも無料サービス。助け合いというやつか。頼まれたときは2枚撮るようにしている。自分のアングルには納得しているつもりだが、好みの違いで彼らに私の能力を疑われるのは心外だからである。

Akihabara 2

秋葉原は混沌の街である。駅前では、大学生が学生運動の弾圧について拡声器で語る横で、変な恰好をした女がチラシを配る。その横では明らかにスカウトの人間が通行人のフリをして頭の悪い女に対してスカウトと言う名の詐欺をする隙を伺っている。そして何よりもマルチナショナルな街である。ヨドバシカメラで買い物をする外国人はとにかく多い。ただ今は円高の影響もあって、少し観光客自体の数もそうだし、買い物する金額も減っていることだろう。メイドは別に害は無いので特に言うことはないが、その痛さに、頑張れ、と少し思うところもある。





力の限り声を振り絞る学生だが、こういった学生の心中はどのようなものだろうか。拡声器でどなる自分に酔っているのか、それとも本当に学生運動というものを行っているのか。色んなことをやることは憲法で保障されているのだろうが、後悔しない選択をして欲しいと老婆心である。色々大学で学ぶべきことがあったと思う。ありがちな後悔を大学をやめた私もしている訳である。深く考えるクセとかは、もっと学生時代に培うべきものであり、それが出来ているかどうかというのはやはり大学で真面目に学んできたかどうかということにも影響される。生きることに悩むのは良く分かるが、結局生きていくために必要なのは、拡声器でどなることではなく、環境に対応し、ストレスと共生していく能力である。
山手線に乗ろうと思い、秋葉原の駅まで行くと、ちょうど電車が来ているので、少し急いで乗ろうとすると、それがだいたい大崎止まりだったりする訳である。そこで、心を落ち着けて電車に乗ろうと考え、急ぐことをやめて、翌日さあ電車に乗ると、これまた大崎止まりであったりする訳である。自分の生活パターンが安定していない方だろうと考えていたが、意外と毎日タイミングの悪い感じで大崎行きに乗ってしまう訳であり、品川だと混むので田町で乗り換えて座るということを繰り返す。だんだん山手線に対する期待値は低下し、品川より先まで行くということだけで喜びを感じることになる。人間というのはそういうことには慣れていくのである。