
マーケットのボラティリティは人為的なものだろうか。同業他社を貶めるために共謀してマーケットを操作することもある訳である。本当の意味で融和することは利害関係がある限り難しい。妥協点を初めから見付けて処理していくという方法も、一理あるのだろうと思う。期待値を達成出来れば良いのであって、最大値を達成しようとは最初から思っていない。そういったリスク選好であれば、必要以上にリスクをとることもない。リスクに応じたリターンを獲得出来れば良い訳である。さて、そのリスク。バラつきと言えば良いのか、過去のデータからの推測に限界があるのは言うまでもない。それを人が用いることで恣意性が重なり、見えている数字に意味が無いと言うことにも成り得る。監査で見る数字は客観的なものなのだろうか。会計士にファンダメンタルを無視して投機(投棄)する人間が多いのは、一番近くでその確からしさを見て、一番良くその限界を感じているのか、あるいは何も分かっていないのかである。将来を予測することまでは求められていない監査人も、結局のところ見積もりに深い知見が無ければ期間の利益を歪めることになる。かと言って、マーケットに詳しい人間にすら不可能であるランダムウォークを予想しろと言うのは無理な話である。

もう少しアナリシスというものを学んだ方が良いのかも知れない。アナリシスというと増減分析と比率の分析だけだと信じている監査人も多いように思うが、定量的な情報を普段監査する訳ではないこともあり、数字にばかり興味がある人間が多いのだろうか。将来を予測するなど、監査人の奢りなのだろう。線引きが曖昧なものに対して、経済実態を表すのかどうかという判断をするために必要なものとは何か。社内での調整も仕事の1つだろうが、プロフェッショナルとしての判断には影響を及ぼすことは理論的にはあってはならないことである。最近の基準は細かすぎて判断し切れないものが多くなりつつある。結局その基準の目指すところは将来に関する見積もりであることが多く、それを財務諸表に全て表せるというのであれば、マーケットもさぞかし効率的になるだろう。情報開示をさせることのプロフェッショナルとしてのあり方は今のままで正しいということも無い。要求される水準が上がり、他のプロフェッショナル、特に価値を見積もるような業務を委託することで能力の不足を補い、建前としては監査の効率化を目指す訳である。価値算定も算盤を弾いて出て来た数字を、また監査人がああだこうだ言うわけで、効率が良いのかどうか分からないし、そもそも算盤を使って出せるようなものなのだろうか。

M&Aの多くが失敗してしまう理由は良く分からないが、結局欲しいものを買う時は少し高くても我慢するし、後でちょっと後悔するのは良くある話で、会社が会社を買う場合にはちょっと影響が大きいよね、ということになる。人間を観察することで、色々なことが理解できる。ただ常にその観察結果と一致しないのは、バラつきがあるのだから当然である。ある程度の許容範囲をもって人間と接するようにしなければ、会社組織というものは機能しなくなってしまう。簡単に切り捨てることは、切り捨てる側にとってみれば理由はあるし、満足なのだろうが、結果としてそれが感情以上の何かによるものであったという客観性を立証することは難しい。大多数を相手にする場合には、結局根回しが間に合わない場合もあるし、失敗した後のフォローも十分ではない場合がある。規模が拡大すればするほど規模の経済による恩恵はあろうが、管理コストは増大し、思うように動かないというストレスに対する見えないコストと言うものは後でじわじわと響くことになる。

大差ないものを大袈裟に騒いで最もらしくするのは人間の得意とするところである。1つ1つ丁寧に解決していれば、効率性を害するし、かと言って放っておく事で不良な在庫は蓄積し、最終的には粉飾するか破綻するかという道を選ぶことになる。問題を認識していても動けない場合がある。それだけ組織を動かすのは難しい訳であり、1つの目的を達成するということは簡単では無いと思う。そう思えば人間のカラダの構造というものは、奇跡である。アブラハム・マズローの言う欲求を次々に満たすという目的に向かって、会社に勤める社員の数など相手にならないほどの細胞が脳という中枢の命令に従って、最も効果的で効率的な方法を探し続けながら機能している。こういった人間の欲求を紐解いて行く事が出来れば当然素晴らしい結果になるのだろうが、それが金になるかどうかという判断をされれば殆んどの人が止めるだろう。途上国で流行るような伝染病への治療薬のR&Dが自発的に起こらないのと同じ原理で、もしそれが起こるとすれば、そういうものがボランティアというものなのだろう。

自分の精神のボラティリティを制御しずらくなる時もある。波に波が重なると儚さと果てしなさに直面する。喜びは長く続かないという儚さと、辛いことは連続して訪れる果てしなさである。自信などというものは簡単に揺らいでしまう。欝になる過程はきっと簡単なものである。それぐらい造作も無い個々の人間の行動が相互に影響を及ぼし、抜群の結果を及ぼすこともあれば、果てしなく堕ちていくこともある。それがチームというものであり、人間社会である。そういった他人の世話というのは、恐らく今の厳しい世の中、つまり自分を高めて行く事で精一杯の環境では、余計なこととして扱われるのである。このサイクルから抜け出すには不屈の闘志が必要だが、おsもそも不屈の闘志があれば、そういった状態になっていないということも考えられる。自分が揺れることを客観的に見ることが出来るような人もそう多くないだろう。自分を知りたいと思うのは、思っているよりも機会が無いのである。猛烈に悩んで、その後に弛緩した状態が訪れると、ふと考えがまとまったりする。科学的に正しいのかどうか知らないが、緊張と弛緩の連続なくして何かを見付けることは難しい。ずっと緊張していても、自分自身を知ることは出来ない。休むべき人間は休まなければならないのである。経済的な足枷というものは、ラチェット効果のせいで外すことは出来ないのかも知れないが、最も大事なことは生理的欲求を満たすことが出来る状態を最低限維持することであり、これは誰でも知っているはずのことである。
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