2008年12月12日金曜日

Maihama 6

細分化された世の中への対処はどのように行えば良いのだろうか。先ず目の前にある状況を片づけなければならない。その後周辺へと派生させる。それだけではなく、関連性の薄いものであっても一定の水準に達していなければならない。ただし、自分の専門とする分野を疎かにしてはならない。何かに専門性を持たなければ、結局中途半端であるとみなされるのが今のご時世である。幸いにして会計士は会計や監査については、社内のインフラが整備されていて、幾らでも身につける環境はある。しかしそれを有効に活用する方法というのは、やはり職人芸なのである。Big4にとりあえず入れば質の高い仕事を出来るだろうとか、そういう受動的な発想ではどんな会社にいったとしてもレベルの高い仕事をしないし、会社に貢献することも出来ないだろう。新入社員にそれを求めるのは厳しいのだろうか。専門家とかプロフェッショナルというレベルに至るためには、自発的に研鑽を続けることが出来なければならない。そして周りにそれを還元し、プラスの影響を与えて行かなければならない。
さて話がそれたが、結局のところ自分の中に専門性が生まれてくれば、多大な努力は要するものの蓄積されたその専門性を元手にして様々な分野への派生を始めることが出来る。会社に入ると、最初は足りないことばかりで、色々やらなければならないと思い、色々なものに手を出してしまうが、そもそも全部のことをやるキャパシティなど普通の人間には無い。普通というと、感覚的に上下0.1%ぐらいを除いた大多数の人間ということになろうか。周辺業務への派生というのは、ジョブローテーションのある日本の会社では、むしろ当たり前なのだろうか。専門性が高ければ良いが、それだけではプラスαというものは難しいし、そもそも会計や監査だけを勉強していれば良いだなんて、最初から想定していない。マーケットや経済に関して疎い会計士とはいったい何を目指しているのだろうかとふと疑問に思う。監査人は目の前の書類とPCに向かい過ぎてマーケットというものをあまり意識できない人も多いだろう。しかし会計基準や監査基準というものは、世の中の中心ではなく、既に起きたことに対する記録の方法と、それの監査手法について規定するに過ぎない。
監査は後追いであるとよく言われているが、仮にそうであるとしても、経済事象への理解が欠かせないのは当然であり、常に後追いしているのは専門家として要求される水準に達していない。したがって、周辺知識というものは自然に身につけるべきものであり、意識しなければ出来ないというのでは、精神的な負担があるというだけで一歩遅れてしまう。結果として関連性の薄い内容への派生にも時間がかかる。本来あるべき姿というのは、ゼネラルであることである。専門家は当然評価されようが、しかし教養なくしてマネジメントにはたどり着かない。プロフェッショナルファームであったとしても、マネジメントは必要である。テクニカルなパートナーになるか、声のでかいパートナーになるかは本人の好みもある。しかし人の上に立つに当たって必要な教養は、生まれつきとか直感だけでは逃げることが出来ないということを認識し、それを身につけるための時間を持つことは必要なのである。好きなことをやっていれば良いのではなく、複合的な効果を生み出すためには、必要なこともやらなければならない。
年を経るにつれて、要求されるものは少しずつ、あるいは劇的に変遷する。これへの対処というものは常に組織人としての課題であり、対処できない専門家というものは陳腐化するリスクを抱えていることになり、結果として市場価値も下がる。色々分析したり調べたりするのは好きな人も多いが、自分自身について分析する機会を持ち、そして改善すべき点について把握する。なかなか自分を省みるということは難しいし、何をベンチマークにすれば良いのかも分からない。しかしどんな職業をやるかということよりも大事なのは、一人の人間として成熟することであり、それは教養の複合的な作用から生まれる成果なのである。細分化された世の中であっても、この複合的な作用というものは応用が利く。偏った学習では偏った方向にしか向かわない。机上の勉強に意味は無いと感じる場合は多いが、それ以上に考え方を偏らせてしまう可能性もあり、時に害である。それを判断することの出来る賢人というのは限られており、 だからこそ基礎となる学校教育というものは真っ当なものである必要がある。初めから妥協点を見つけて仕事をするような官僚に、能力を伸ばしていくような教育の仕組みを作れるとはとても思えない。人を育てるという観点から成功した企業というものをもっと評価すべきである。人的資産は貸借対照表にのらないが、企業価値の評価をするに当たっては最も重要な資産である。これも最初から落ち着く数字を弾き出すようなやり方では、失敗するのは当たり前である。
知の巨人の存在は必須である。数は限られている。知の巨人の言うことを翻訳出来る人もある程度は必要であるかも知れない。大衆を教育するためには、知の巨人の言うことは果てしなく難しいからである。これを噛み砕くことが出来る人間も必要なのだろう。それが専門家だろうか。大衆は煽動されやすい生き物である。これを操って商売にすることが一番金になると考える人も多いのかも知れない。当初はそういったことを想定していなかったのかも知れないが、結果として金が入るということに靡くわけである。自分に足りないことが、全て埋まると思うのは不自然であるということに気付かなければならない。もっと周りを見なければならない。周りというのは、周りの人間などという狭い世界ではなく、あるいは自分の都合の良いように話を聞いて共感してくれるようなしょうもない輩でもなく、自然界の法則というものである。人類は社会的な生命体であり、何かしらの法則がある。これに比べて不自然なものというのは、本来起こり得ないものであり、仮に短期で生じているとしても必ず是正される。短期的なブームというものが、得てして消え去るのはこのためである。人間が飽きやすいというよりも、そのブームが不自然だったからである。振り返れば自分の思っていることは、間違っていることもある。何かに照らし合わせなければならない。そういった目線を持つことは本質が強欲な人類にはそもそも出来ないのかも知れない。そうやって遺伝子レベルでの記憶が、滅びへの一歩を着実に歩ませるのである。自由を手にした日本人は確実にその道を歩む。とにかく打たれ弱い人間が増えている。そして自分に都合の良い方向でしか物事を理解することが出来ず、これは頑固というよりも何かに憑依されている状態に近い。胡散臭い宗教にはまり易く、自分に共感してくれる人間の言うことであれば何でも聞いてしまうのが特徴である。厳しい環境の中でトレーニングを続ける意思も無い。しかしプライドだけは高い。シュガー社員とかそういう類のものは全てここに分類される。細分化された世の中にとらわれ過ぎているという情報整理の出来なさが、教養は無いがプライドの高い人間を生む。これは彼等のせいではなく、むしろパンデミックなのではないかと恐怖すら覚える。

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