2008年12月12日金曜日

Maihama 1

舞浜とあるとディズニーランドにでも遊びに来たように見えてしまうが、なぜか会社の研修を舞浜のホテルで行うというので、天気も良いしカメラを肩にぶらさげて写真でも撮ろうという気分になる。この研修の意図を理解するのはなかなか難しかったが、これも福利厚生の一環であると思える新人スタッフなどもいるのかも知れない。監査法人内にも色々な部署があるが、希薄な関係というのは共通だろう。濃厚なコミュニケーションがあるのは、事務所にいる時間も長く横の繋がりをつくりやすい経営者層だけである。経営者なのだから当然であるが、個別の会計事務所の集まりであるということを実感する。チーム単位で別の会社のような錯覚にも陥るし、社内で能力開発のための取り組みがなされる訳でもない。結局のところ自分で金をかけて勉強しなければならない。当たり前のことなのだろうが、こういった組織では人材に投資するのが経営戦略なはずであり、仕事が無いのに大量の新人を抱えることはそういったところに金を使えなくなるということである。それを育てるのが仕事だと言われてしまえばそうなのかも知れないが、無限に金と時間があるわけでもなく、特に時間は貴重なものである。当然金は大丈夫なのかと思えば、それを吸収できるような報酬が常に用意される訳でもない。平和だな、と思う。
最近は試験の合格者を安易に増やす政策がとられたことで、質を向上させるような余裕があるはずもない。結局のところ、会社の中で金を稼ぐようなレベルの人間は待遇があまり改善させず、事務所内でヒマを持て余している入社直後の新入生を食わせてやっているという構造になりかねない。自己研鑽ですべてを賄うということには限界がある。効率的に社外のリソースを使うには金がかかる。個人での能力開発は当然に必須ではあるが、それだけで常に支えて行くというのでは、会社全体として向かう方向が見えないし、その人材だって退社する可能性が高くなる。稼げる人間に継続的な投資をし続ける体制が無ければ、ノウハウが蓄積した人材が辞めていくという結果に繋がる。不思議なことにそういったところにはなかなか考えが及ばないのが経営者層であり、同業他社や他部署と比べて数字がこれだけどうだったとか、そういう類の話しかしない。しかもそういう数字も見せ方によっては幾らでも都合の良いように見えるわけで、それに染まった人間もそれが慣行であり、正しいものなのだと思ってしまう訳である。普段粉飾をされていないかということに、気を遣う会計士達も、いざ自分で数字を使うようになればそういう姿勢を忘れてしまう。
チームを動かすというのは非常に難しいことである。人数が増えれば増えるほど、伝達の回数が増え、最後に伝達される内容というのは限られるし、無意味なことであるように伝わってしまう場合もある。マネジメントの伝えたいことをうまく翻訳することもその下で働くものの勤めである。そう考えるとチームを崩壊させることなど簡単であるとも思う。ミドルが翻訳する時に情報を操作してしまえば良いからである。これでマネジメントと下を切り離し、自分の都合の良いように情報を使える訳である。いずれ組織が崩壊することになろうが、短期的には、自己の保身として使うことは容易に想像される。高邁な精神を持った人間だけが組織を組成している訳ではないからである。何で評価されるのか分からないという不安は、社内でのゴマスリを横行させる。人間というのはそんなに簡単に他人には共感しないし、何の気なしに共感してくれる人がいるとすれば、そこには何かしらの利益を獲得しようと目論んでいるのではないかと、多少の懐疑心を持って接する必要がある。メディアを通じて学ぶような正義というものは、多くの人には備えられておらず、サンプルの元となるものに偏りがあるのだということを知らねばならない。特に組織に属すれば人はより硬直的になるし、自己の保身というものへ向かう。
人は組織に属すことで、意図的か非意図的かしらないが、自分の存在意義というものを探す。それによって社会に貢献できると信じる訳である。価値観というものは揺れやすい。不安なことが多い今を見れば分かる。本屋などは金融恐慌の特集をビジネス書籍のコーナーで行う。経済情勢に敏感なビジネスマン層は、そういった本を手に取り、知らぬ間に洗脳され身を守ろうという意思決定を行う。1年前に考えていたことと、その本をとった後で考えていることが違うということを正当化する理由は何か。不安を煽るような商売をするのは儲かるのかも知れないが、そのブームもまた短期的なものである。長期にわたりその精神を維持できる人間というのは多くない。その時に買った本を見返す人はあまりいないからである。通常、人は辛いことですら、長期的には慣れてしまう。今を忘れないことは重要であるが、それを意思決定に反映させることが、必ずしも正しい訳ではないし、恐らく数年後にはその時に悩んだことも笑い話になっている。情報の速度が上がったことで、ライフサイクルというものも確かに変遷した。しかしその状態に追いつける人間というのはいない。道具によって処理されるものは増えたかも知れないが、人間の精神というものが成熟する速度が劇的に改善する訳でもないし、むしろ昔に比べれば責任を負わない期間が長くなった分、精神的には幼稚になっているのではないか。
身を守るために行わなければならない情報処理も増えた。継続的に勉強できる環境というものが幸せかどうかは分からないが、結局のところ生きるために必要なことを学ぶだけで、人生は終わってしまう。経験が陳腐化しやすくなったことで、自らを常に改善していなければならない。望むところだという人もいれば、安定を望むような人には辛いことであるかも知れない。会計基準のアップデートだけでも多くの労力を要する。しかもこれには限りがない。昔よりも人が速く走れるようになるように、脳の力も引き出されつつあるのだろうか。自分自身が劇的に何かを出来るにようになったという実感もない。そういったことが出来るようになるという幻想は、マンガの中の世界だけであって、実際には人々は猛烈な努力を重ねてこれっぽっち、というぐらい小さい成果を積み重ねて次の成長を目指している。金も時間もかかるからこそ、効率的な手法を紹介できる人間がいなければならない。それは誰の仕事なのかと言えば、結局のところ頼りないマネジメントではなく、個々人の中のそういったものを改善していこうという覚悟なのであると私は思う。と書いてみると、周りのことを気にしても仕方ないという結論に至り、結果希薄さというのは益々膨張する。

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