2008年12月21日日曜日

Ebisu 8

長時間働けるかどうかということは、仕事の内容にもよるのだろうか。決まりきったことに対して、当てはめていくような作業でうまく行かないような場合が一番気が乗らない。最初のうちはこういったことの繰り返しであり、猛烈な事務処理能力と不毛だがトライアンドエラーの精神が必要である。非常にストレスが溜まる。こういったものに長時間時間をかけている人もいるが、ただの時間の無駄であろう。事務処理をこなしていくうちに法則性を理解し、それを使って応用できるようになっていかなければならない。そこまでに辿り着く時間には個人差があり、使う側はそれを理解しなければならない。 事務処理が出来ないのに、それしかやらせてもらえないなどと言う人もいるが、自分を客観的に見れていない証拠である。結局のところ、一定のラインを超えるまでは暗記である。しかしながら、当然その背後にあるのは基準に対する理解であり、そうでなければ実務で使おうと思った場合には、結局分かってなかったということになる。ただ知っているだけでは駄目なのである。試験勉強で学ぶようなことを実務に落とし込むにはやはり訓練が必要である。その時点である程度知っているのと、そうでも無いのとでは網羅性という点で差が出るのは当たり前である。知らないというのは論外である。
結局のところいつもの結論であるが、試験で点を取るのは簡単である。しかし試験で点を取れる人間が実務で使えるかというとそういう訳でもない。圧倒的に点をとれる人間は使える。しかし何故か試験だけに強い人間も存在し、こういった人はなぜ仕事が出来ないかというと我慢弱いからのような気がする。実務で要求されることと、自分の持ち合わせとの差を埋めることが出来ない。これは大変だからである。結局仕事よりも試験の方が大事で、そのまま辞めて行ったりする。転職したりしても結局分かっていないというのは同じなのだろうな、と思える。30歳を超えるぐらいになると少しラクをしたいと思うようになるのだろうか。いずれ結果が出るだろうが、そうでも無いように思う。登るべき山は高い。結局周囲の人間からのプレッシャーがある限り、それ以上のペースで走り続けることは必要であるし、そもそもそうでなければすぐに辞めることになる。自分の弱さを環境のせいにしたりすることもあるが、それを克服できなければいつか自分の首を絞めることになる。現実から目をそらさないということが出来ないのは何故か。
打たれ強さの根源とは何だろうか。これを鍛えていく事は出来るのか。それとも先天的なものなのだろうか。私は打たれ弱い方だと思う。だから打たれないように自分を守っていく必要がある。時に打たれればそれによって全身が揺れる。それを繰り返すことによって慣れていくのだろうか。自分の身を守ろうとしているのか、それともプロとして付加価値を提供したいと思っているのか。ベクトルは同じである。どちらかに分けるということは出来ないのだろうなと思う。本当に優秀な人はこういったことを疑問に思わず付加価値を提供しているように見える。根暗な人間は悩むしかない。悩んで自分を改善する。息をつく暇がないのは仕方ない。それでも悩むという時間が言葉を吐き出し、消化するために書く時間を作る。ふと思ったが、打たれ強さというのは復習をするかどうかということなのだろうか。打たれないためにすることは予習である。打たれ強さというのは打たれた後にどうするのかということであり、精神的な回復力の早さが次に向かわせる。意外と切り替えが出来るように思うが、これはB型という血のせいだろうか。
意思決定の連続では、常に代替案との比較を求められる。現実社会では、代替案間での重みというのは、その人の主観によるものと、客観的なもの、つまり世間一般で言われるようなことを一部考慮する訳である。自信を失っている時は、主観の重みが減る。他人の言うことに流されやすいからである。意見に流されるのではなく、柔軟に取り入れるということが出来れば良いが、結局その時の市場環境や体調などにもよる。この主観による重み付けは、解明することが難しい。単に貨幣価値だけで測定できないのが人生である。しかし一定のラインまでは貨幣価値で測定する。その一定のラインというのは、結局のところ地球上の90%ぐらいまで含んでしまうようなラインなのかも知れない。やりがいというものを求める水準になるためには、経済的な満足ありきであるから、そこまで辿り着ければしょうもないテレビの番組や大衆誌では自然と勝ち組と呼ばれているはずである。しかし、そういった人々も更なるものへの渇望がある。上には上がいて、上の上には上がいるという現実を知り、そこでまた悩むのである。
生きるためには色々な能力が必要であるが、目指すべきところは、教養のある哲人であることは万人にとって普遍の真理である。これは分かりやすい。それぞれの時代において求められることは変化する。しかしこの真理は変化しない。残念なことは人が変化してしまうということである。テクニカルな部分で時代から取り残されるようなことがあれば、自分には教養があるから大丈夫、という余裕は無い訳である。結局うまく行くという状態は殆んど有り得ず、自分の中の精神的な需要と、能力から来る供給というものがマッチする瞬間というのは一瞬であり、むしろ一定の幅の中に収めるように努力し続けているというのが実感である。法則性を見つけることが出来れば、それは表面的な技術よりも役に立つ。応用が利くからである。何をすべきかという問いには全てすべきであると答えたいところであるが、時間には限りがある。睡眠不足は生産性に大きな影響を及ぼす集中力の低下をもたらす。長い時間をかけて長い文章を書いていると、何が言いたかったのかをもはや思い出せない。集中力の無さとはそういうことである。もう少しものを書くときにまとめて書くようにしなければならないと最近実感しつつある。文章のうまい人というのは頭の中がすっきりしていてやはり賢い。私はどうも色々なことをめちゃくちゃなタイミングで考える癖があり、それで脳内に混沌を生み出してしまう訳である。脳の処理能力が勝手にあがるようなことは無いのか。


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