
マーケティングに脚色されたものを購入することを止めるだけで、幾らかコストの削減になるはずである。日本の消費者はデフレを生み出した頃は多少賢かったのかも知れないが、それに慣れ、企業が価格を維持するために行ったコスト削減の努力の恩恵というものは無償のものであると信じた結果、愚かになった。中国製品を嫌悪するのは、ある意味反中感情が反映されている。日本国内での不祥事もマスコミがとりあげなくなると忘れてしまうが、結局コスト削減の圧力というものが、効率化等の限界を超えた点にまで達し、質を下げざるを得なくなる。消費者は多少の変化には分からないし、それに慣れる。そして更に質を下げる。日本の製品が世界一の質を保っていると考える方がおかしい。グローバリゼーションというのは、日本人のそういった幻想を打ち砕くものなのである。中国ですら、既にコスト削減の一時的な限界を迎えている。技術の革新により、更にコストを削減する可能性はあろうが、それでも今までの成長を維持するということは並大抵のことではない。2桁成長を5年6年続けるということは、国の経済規模がそれだけで2倍になることを意味する。反対に価格が高騰する時には、質を改善しようという意欲は湧かない。勝手に売れるからであす。そこを真面目に取り組んでいる企業というのは、骨太な組織である。

短期的な利益に着目してしまうのはマーケットの仕組みによるものなのだろう。プライベートエクイティ投資などで、ある程度長期的な視野でビジネスを行うことが出来るような投資というのも最近では規模が巨大化し、マーケットでの存在感も一段と大きくなっている。日本人の感覚には、長期的な投資というのが合うのかも知れないが、日本経済の縮小というのは避けて通れない。よく見る予測では、2020年には、現在2位の経済規模である日本は、5位、6位になっているということであるが、自然なことだろうなと思う。移民を受け入れることもなく、言語の障壁も高い。文化も独特であり、むしろ島国としてここまで経済を発展させたことの方が奇跡である。時代の流れに乗り、時々頭角を現していたアジアの小国は、今後もまた世界から注目される時が来るのだろうか。円安を享受した時代は、世界的な利下げ、通貨安に押し切られ、しばらく帰ってこない。となれば、割高な日本製品を買う外国人は減るし、観光客も減る。経済成長だけを目標にした場合には、縮小の一途をたどるっていることになる。税収は減り、削減されるものも多く出てくる。それでも本来無駄が多いはずで、大した影響はないはずだが、年度末に無駄なことを行って予算の取り合いをする官公庁のおかげで、大事なものが知らぬ間に削減されていたり、経済的な事情から働き続けなければならないがゆえに、安定的な所得税の納税者となっているサラリーマンが搾取される状態を生んだりする。

ゆとり教育という取り組み自体は、結果として大きな失敗だったとは言え理解できなくもない。競争だけでは成長できないということもアメリカとイギリスによる巨大な実験によって明らかになったところである。競争原理というものは、確かに様々な欲求を満たして来たが、結局のところ組織や社会という単位で動かなければならないものを全て単一の尺度で測定することは難しかったということなのであろう。ただ日本が取り残されることで、貧しくなるということは望ましくないと考えれば、世界の標準に合わせていくことも必要となる。企業は真っ先にそれに取り組んだ訳で、大きく収益を改善したり、グローバル化の恩恵を受けて成長することが出来た。ただ、国民はどうなのかということである。そういった意識を高めることができたのだろう。未だに国が豊かであるおかげで日本人はプライドが高いが、それを上回らんとする国はすぐ隣にあるのだし、英語も日本語もできる外国人というのが増えている現状を見過ごしているわけである。労働環境の分散が出来るということ、それからハングリーさがあるということ、といった要因を考えれば、どちらに投資をした方が効率的であるかは分かるはずである。日本の文化は評価すべきところもある。かと言ってそれだけですましているわけにはいかない。

自分に何が出来るのだろうか。それを理解するには能力の無い人間にはきっと時間がかかる。周りに色々出来る人が沢山いるからである。自分に出来ることや、自分が気づいたことを他人に押し付けないようにしなければならない。それは一時的なものであるかも知れないし、本当は裏付けのないものであるかも知れない。何よりも自分に何が出来るのか、ということよりも、自分が組織や他人に対して何を出来るのかということが重要である。一定の証拠を示し続けなければ、何もしていないのと同じであるし、何もしていない状態で口先だけで仕事を拒否するようなことをしていれば、やはり組織にとっては害であるし、他人に必要とされなくなるのである。本人もいずらくなることは分かることで、結局のところ後悔しても遅いということなのである。時間は限られている。何年も前に遡って色々やり直すにはコストがかかりすぎる場合が多い。現状を受け入れるということで、そういったコストを発生させずに済むかも知れない。積み重ねたものを壊すためには、時間はそれほどかからない。しかし同じ場所に新たなものを建て直すには時間がかかる。それでも良いという場合もある。定量的な評価だけが正しいわけではないのが社会だからである。

最近はそれほど内容がある訳ではないが、書く量が増えていて、そのせいで写真が追い付かない。仕事が忙しいときほど色々なことを考えて、アイディアをまとめるために書くのかも知れない。あるいは、鬱な状態を解消するために書くのかも知れない。私は書くことでスッキリする傾向にある。誰に伝える訳でもないが、思うがまままとまりの無いことを書き綴るという所作は自分の中の何かをうまく消化してくれているということである。CFAの勉強を続けているせいで、あまり本を読めない。特に日本語の本を集中して読む時間を作ることが出来ていない。会計基準のような専門書は読まざるを得ないが、人格はきっと歪んでいるはずである。そういった専門書というのは道具を学んでいるだけであり、人間として成長するかどうかと言うと、そうでもない。自分自身を客観的に測定する、といったことが出来るようになって、問題点を指摘し、修正できるようになれば良いのだが、実務の中でもそういった本に書いてある知識が役に立つことが少ないように、人間を矯正していくということは、そんなに容易いものではない。書いてあることを理解して自分の中に落とし込むだけで時間がかかるし、それを実践し、繰り返すというだけで更に猛烈な時間がかかる。その結果として、行ったことが効果をもたらすかどうかというのも不確実である。結果というものが分かっているような場合はラクなのだろうが、なぜかそういったものにチャレンジする時にはモチベーションが起こらないのである。自分の中にこういった矛盾を抱える状態が、均衡を崩すと何も見えなくなる。それが日常生活の中に人間が張り続ける糸であり、苦しんでいるような人がいれば、この糸を切らないように徐々に緩めることに協力することが必要とされる。
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