
自我をいかにして回復するか。アブラハムマズローによれば、人間の欲求というものは5段階(生理的欲求、安全の欲求、所属と愛の欲求、承認の欲求、自己実現の欲求)に分類される。世の中でも90%ぐらいの人が何故か知っているこの欲求階層説だが、これを用いて科学的にアプローチをすることで解決できることもあるのだろうか。人間の心理というものは、そんなに簡単なものではないのだろうが、何かの積み重ねにより今があるわけであり、紐解いていくことは理論的には可能である。日本人の多くは生理的欲求や、安全の欲求というものは満たされているはずである。所属と愛の欲求が満たされている人はどの程度いるのだろうか。この欲求に基づけば、集団における意思を切望するのは、自然である。組織において、必要とされたいと思う訳で、それが脅かされるようになれば、無意味と思えるような行動ですら、一生懸命になってやろうとする。それが結果を好転させるかどうかは別として、何 かに所属し、愛によって満たされるということは、兎に角重要であるという人は多いはずである。

そう考えると、インターネットなどの普及というものは、しごく当然であったのかも知れない。匿名性が高いが、そこにおいてコミュニケーションは存在し、それがまた所属という意識を与えてくれるのかも知れないし、運が良ければ愛を得られるかも知れない。出会い系サイトなどにおいて、見ず知らずの人間と出会いセックスをするようなことというのは、不思議なように感じるかも知れないが、突然所属や愛というものを失った人間にしてみれば、代替となるようなものを求めるのは当たり前、あるいは生きるために必要なことなのである。この欲求を逆手にとったビジネスは多い。この欲求によって、間違った 方向に向かってしまうこともあるだろう。集団によって行われることが正しい方向に向かうとは限らないのは、所属と愛の欲求によって、正しいことをすることよりも、所属し、愛を得ることの方が重要であるという判断を多くの人がするからである。これを乗り越えることが出来るのはごく限られた人間だけであり、仮に乗り越えたとしても次の欲求である承認の欲求というものにぶつかる。あるいは、そこに至らず、所属や愛を保てないということもあるのかも知れない。こういった欲求は、寂しさと表現されるものに繋がるのだろうが、この欲求をコントロール出来るようになれば、きっと生きることが少しラクになるのだろう。

他人の顔色を気にしながら生きていたのでは、自由な発想を生み出すことも難し い。結局パワーハラスメントだとか、セクシャルハラスメントというのも、こういったことを逆手にとり、反発出来ないという前提で行われているものであり、他に所属するような場所がある人に行えば裁判沙汰になるというのも理解できなくはない。承認の欲求というのは、プライドに近いものと考えれば良いのだろうか。自己に対する高い評価、自己尊敬、自尊心とある。世の中に必要とされる、といったことを欲するのが、この段階であり、これが満たされないと劣等感、弱さ、無力感などの感情を生じさせるようだが、会計士に鬱症状を出す人間が多いのもこういったことが原因だろうか。世の中から自分が必要とされていると感じられるような教育はなされていないし、特別な能力が会計と監査と言うと何 か地味なように聞こえてしまわなくもない。これで自信を持つというのも難しい。難しい(と自分たちが信じている)試験に受かった多くの会計士は、自分には能力があるということを認めて欲しい訳であり、社内で評価されなかったりすれば当然に自信を失い、自分の存在意義というものを見い出せなくなる。

こういった症状に陥る人はかなり多く、それだけ自己による評価と他人による評価との間に差が出てしまうということである。そもそも会計士試験などは、誰でも受かるような試験だが、何か難しいとされるようなものを三大●●、と言ったりするのが好きなのが人間であり、日本人である。結局のところそういった表面的な情報からイメージを作りあげ、それを正当化し、自分と重ねて行く。自分の 中で難しいものであると信じ込んでいたものに辿り着いた時、自分の評価は最高潮になるのである。この評価が間違っていることに気付くには時間がかかる。自己の評価を覆すのはこのような低次で悩むような人間にとっては難しいのである。とすると、自己評価と他人の評価の差が埋まって来るまで、やはりタイムラグが生じることになり、この間に自信という無形資産は減損して行く。何をやってもダメな気がするし、次に失敗することに恐怖するのである。そういう意味では、そこから転がり落ちれば所属と愛というものも同時に失ってしまう可能性がある。なぜならば、会計士のように胡散臭いながらもプライドの高い人間は、そうやって人生にレバレッジを効かせて生きている人が多いからである。

生きることは出来るし、食うことは出来るだろうが、それ以上ではないという人も組織には多くいるし、会計士だって監査法人だって例外ではないのである。自己実現という段階まで至ることは起こるのだろうか。自己実現の状態を達成するためには、自分がなりうるものに自分がならなければならないのだと言う。潜在的に満たしうる自己の能力というものは、機械的に算定される訳ではない。それは自分の生きてきた、バックグラウンドにもよるし、その時の状況にもよる変動的なものである。あやふやな状態しかイメージ出来ない私にとっては、この次元は未だ高すぎるように思う。得られるであろうと想像されるものは、常に自分のファンダメンタルと乖離しているのが、若いということである。年齢とかそういうものは関係なく、自分の価値というものを貨幣だけでなく様々な測定基準で測定し、それに相応しい生き方を選ぶということである。夢を見るというのは、いつまでも許されるものでもない。夢と考えているものは、時間軸を死に向かって歩むに連れて、目標に変わるか、諦めたものに変わらなければならない。いつまでも夢を見るというのは不思議なことであり、本当に夢を見るというのであれば、到底達成不可能であるということを自分も他人も理解している上で夢として目指すようなことを意味するわけで、そうでない高望みとか、そういったものは夢を見ているとは言わない訳である。他人と比較しながら生きている状態では、自己実現には至らないし、その先に見えるような景色も見えないことになる。いったい誰が辿りつくというのだろうか。しかし猫の足は不思議である。トム先輩は肉球を触ると本気で怒るが、これは彼のどのような欲求を冒しているのだろうかと、昔よく考えていた動物の心理というものを懐かしく思い出してみる。
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